大室古墳群の谷間に群集する積石塚のうち、合掌形石室や竪穴石室を除くと、その多くの埋葬施設は中型や小型の横穴式石室である。横穴式石室は入り口から羨道(せんどう)という通路を通り、玄(げん)室に死者を安置し、埋葬したあと入り口をふさいだ。この入り口を開け閉めすることで追葬が可能となり、前期の竪穴石室のように一人のための墓ではなく、家族数人を埋葬することができる家族墓なのである。
これらの横穴式石室のなかには六世紀後半の大室一八七号古墳や一九〇号古墳のように石室の側壁に大きな平石を縦積みにし、その上方に小型の平石を横積みにするものがある。このような横穴式石室は伊那谷の飯田市畦地(あぜち)一号古墳と高岡一号古墳(六世紀前半)の初期横穴式石室と共通し、日本列島の他の地域には認められないものである。海外に目を転じると、朝鮮半島の百済の地、韓国全羅北道(ぜんらほくどう)の錦江河口地域の石室とその特徴が一致していることから、大室一八七号・一九〇号古墳の被葬者は百済からの渡来人の可能性が考えられる。長原古墳群(若穂保科)は保科扇状地の扇央部に積石塚古墳一八基がつくられ、中央部の七号古墳からは百済系の須恵器が出土している。
大室古墳群の多数の積石塚がつくられたのは六世紀後半から七・八世紀にかけてで、その被葬者の多くはこの周辺地域の開拓にかかわったムラの有力者やその家族の墓と考えられている。これらは十数基から三〇基前後がまとまって小群を形成し、その背後には同一地域を墓域に定めた同じ集団の存在が想定されるのである。