古墳にみる仏教文化

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長野盆地では六世紀から七世紀前半に築造された古墳を後期古墳、七世紀後半以降につくられた古墳を終末期古墳と区別している。桑根井鎧塚(くわねいよろいづか)古墳群(松代町豊栄(とよさか))や長原古墳群は七世紀末から八世紀前半まで古墳が築造された。この時期の古墳は石室入り口付近から墓前祭を示す須恵器が出土することが多く、石室内から金銅製の耳環の出土数が多く、長原一三号古墳からは一五個が出土し、同じ一二号古墳から出土した四個のなかには麻紐(あさひも)が巻きついたものがあり、耳環の使用方法を知るうえで貴重な資料となっている。

 六世紀中ごろ日本に仏教が伝来し、大化二年(六四六)には薄葬令(はくそうれい)が出され、墳丘や石室の規模、古墳造営にかかわる役夫(えきふ)の数などを身分によって規制する法令が出される。こうしたなかで、六世紀末、大和(やまと)にわが国最初の仏教寺院飛鳥寺(あすかでら)が建立され、その塔芯礎(とうしんそ)の周辺にはこれまでなら古墳に副葬された玉・金環・馬鈴などが入れられたのである。仏教伝来後の古墳は小型化し、副葬品も簡素化し、銅製の水瓶(すいびょう)や銅椀(どうわん)などの仏教関係の品々が副葬されるようになる。それまでは大きな古墳や豪華な副葬品で示してきた被葬者の身分や権力の象徴が、その対象を新来の仏教寺院の建立へと移していったことが理解されるのである。