前方後円墳と北信濃

124 ~ 126

シナノの地でいち早く畿内(きない)のヤマト(大和・倭)王権の規制をうけた墓制である前方後円墳をつくったのは、千曲川中流域の高遠山古墳(中野市)、森将軍塚古墳(千曲市)、川柳(せんりゅう)将軍塚古墳(篠ノ井石川)に葬られた首長であった。その後この地には五世紀半ばまで場所をかえて前方後円墳がつくられるが、古墳時代中期後半(五世紀後半)に入ると、天竜川西岸の台地上に、前方後円墳である兼清(けんせい)塚古墳(飯田市)をはじめとして竪穴(たてあな)式石室をもつ大型円墳・帆立貝式古墳・前方後円墳がつぎつぎとつくられはじめる。短甲(たんこう)や眉庇付冑(まびさしづきかぶと)などの甲冑(かっちゅう)が小さな円墳にまで副葬され、武具副葬古墳の数では奈良県や大阪府をしのぐ。当時の日本全体を見渡しても、突出した軍事的性格の強い集団がこの地に突如として出現したことを物語る。これは、この地の中小の首長が畿内勢力と結びつき、それまでの北信濃の豪族にかわって急速に勢力を伸ばしたというべきであろう。

 北信濃ではこの時期、中小の円墳が増加する。とくに県内の古墳総数三五〇〇基余のうちの八五〇基ほどが積石塚(つみいしづか)古墳で、とりわけ県内最大の積石塚古墳群である大室(おおむろ)古墳群(松代町大室)には、五つの支群に五〇〇基余が群集し、そのうちの四〇〇基ほどが積石塚である。しかも、そのなかに合掌形(がっしょうがた)石室という朝鮮半島の墳墓の形式に由来する石室がみられる点は注目に値する。県内における積石塚古墳分布をみると、高井郡六二〇基余・埴科郡一一〇基余・水内郡四〇基余・更級郡四〇基余・筑摩郡約二〇基と、高井郡を中心にいわゆる北信地域に偏在していたことがわかる。

 五世紀半ばから後半、ヤマト王権の大王(天皇)でいえば雄略(ゆうりゃく)天皇のころ、シナノの政治的秩序に大きな変化があったのである。おそらく、この時期に善光寺平にヤマト王権の直轄地ともいえるミヤケが設定され、ヤマト王権の直接的な影響が北信濃におよんだことが背景にあるものと考えられる。

 ここで、弥生時代末期から古墳時代初期に北信濃にどのようなルートで、東海、つづいて畿内の政治勢力が入ってきたかということが問題になる。この点について、『古事記』『日本書紀』(あわせて「記紀(きき)」と略す)の伝承の再評価がなされている。「記紀」の景行(けいこう)天皇の条でヤマトタケルが東方の十二道に服属しない人びとを制圧するために派遣され、大和・伊勢・尾張・駿河(するが)・相模(さがみ)へと進み、「蝦夷(えぞ・えみし)」を平定した帰りに、『古事記』では甲斐(かい)から科野(しなの)に入り、「科野の坂神(さかのかみ)」を服属させ、尾張に帰還したとする伝承を記している。これにたいし、日本書紀では蝦夷平定後、日高見(ひたかみ)国から常陸(ひたち)をへて甲斐に入り、その後武蔵(むさし)・上野(こうずけ)をへて「碓日坂(うすいさか)」にいたり、吉備武彦(きびたけひこ)は越(こし)へ、ヤマトタケルは「信濃坂」を越えて三野(美濃)(みの)に抜け、そこでふたたび吉備武彦と合流するという伝承である。

 この伝承を、ヤマト王権が東方に進出した状況を何らかの形で反映したものと考え、ヤマト王権は、海路を利用しながら太平洋沿岸地域を飛び飛びに進み、東北地方南部(福島県いわき市周辺)まで進出するが、服属しない中央高地などの内陸部や日本海がわへは、やや遅れて武蔵や毛野(けぬ)から進出しようとしたと理解する説(『市誌』②)が注目される。ここから、ヤマト王権の科野への進出ルートには、毛野・科野・三野という「山の道」(古東山道)と、毛野・科野・越という千曲川に沿った「河の道」が並存したことが推定できるのである。

 これらのルートは、ヤマト王権の時代になってはじめて開かれたというのではなく、さきに述べた弥生時代末期の関東地方・シナノ・コシの交流を踏まえたものと考えるべきで、古墳時代最初期の東海地方の勢力のシナノへの進出のルートとしても想定し、これまでの見方を再検討する必要がある。県内の前方後方墳の分布、千曲川中流域での前方後円墳の展開などはこうした観点から見直す必要がある。


図12 「記紀」にみえるヤマトタケルの東征ルート
(『関ケ原町史』通史編上巻より一部補訂)