ところで、ヤマト王権の地方支配のしくみは、次項でみるように五世紀末から六世紀初めに国造(こくぞう・くにのみやつこ)制として整うが、その特徴はヤマト王権にたいし地方豪族が奉仕することにある。その起源を示す史料としては、埼玉県の埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山(いなりやま)古墳出土の鉄剣銘がある。ここには、この古墳に埋葬されたと思われる「乎獲居臣(おわけのおみ)」より八代さかのぼる「意富比垝(おほひこ)」まで、代々「杖刀人(じょうとうじん)」の長(親衛隊長)としてヤマト王権に奉仕してきたこと、「乎獲居臣」は「獲加多支鹵(わかたける)大王」(雄略(ゆうりゃく)天皇)の王宮が「斯鬼宮(しきのみや)」(磯城宮(しきのみや))にあったとき、大王の政務を助け、「辛亥(かのとい)年(四七一)七月」にこの鉄剣を製作させたことが記されている。四七一年より七代前の「意富比垝」の時代はおおよそ四世紀前半と考えられ、このころにはヤマト王権の勢力が東国におよんでいたことが推定できる。『日本書紀』の雄略天皇の条には、「信濃直丁(つかえのよぼろ)」と「武蔵直丁」が雄略天皇の朝倉宮に宿直(とのい)していたとき、天皇を誹謗(ひぼう)したため鳥養部(とりかいべ)にさせられたという伝承がある。これは、ヤマト王権によるシナノの豪族(科野国造)にたいする労働力の徴発を示しており、シナノの豪族(科野国造)が雄略朝のころからヤマト王権の影響下に入っていたことを物語っている。