平安時代初期に成立した『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』巻一〇の「国造(こくぞう)本紀」には、各国の国造のウジ名が列挙されており、そのなかに「科野国造」の名も記されている。この記事は六世紀半ばから七世紀半ばに実在した国造名を記していると理解されているが、『隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)』には中国の地方官にあたる「軍尼(クニ)」が一二〇人いたとあることから、六世紀末から七世紀はじめの推古朝には国造制はヤマト王権の地方支配制度として、全国的なものになっていたと考えられている。こうした国造制の成立は、五世紀末から六世紀にかけてのこととみられている。
部民制は、人を介して地方を支配するヤマト王権の支配組織であり、元来朝鮮半島から渡来し先進文化を身につけた技術者を集団として朝廷の「トモ」として組織したが、そのさいに百済の「部司(ぶし)」制の影響をうけて「○○部」とよばれたことからはじまった制度と考えられている。こうして、特殊な技能をもつ人びとの集団を「部」として把握していたものが、大王家や朝廷、さらには中央豪族などの支配下に入った人びとの集団をも「部」とよぶようになったと理解されている。
屯倉とは大化前代のヤマト王権が直轄的に支配する産業・交通・軍事の拠点で、館舎・倉庫などの建物と耕地が付属し、耕作には直属の民である田部(たべ)があたったほか、周辺の国造支配下の民も動員されたと考えられている。屯倉は畿内周辺では五世紀ころから、地方では国造が置かれはじめた六世紀ころから国造の領域に設定されはじめたらしく、遅くとも七世紀初めには全国に分布するようになったと考えられている。これまで信濃では屯倉の設置を示す史料はなかったが、さきに述べたように屋代木簡に「三家人部(みやけひとべ)」というウジ名がみえることから、善光寺平に屯倉が設置された可能性が指摘されるようになった。
なお、『古事記』『先代旧事本紀』では、「科野国造」は、意富(おほ)(大・多)臣・火(肥)(ひ)君・阿蘇(あそ)君などとともに神武(じんむ)天皇の第二子「神八井耳命(かみやいみみのみこと)」を祖とすると記されている。また、肥後(ひご)国阿蘇神社の神官をつとめた阿蘇氏の系譜を記した『阿蘇氏系図』でも科野国造は神八井耳命を祖とし、金刺舎人(かねさしのとねり)・他田舎人(おさだのとねり)を分出したとしている。これらによれば、科野国造は中央の多氏(おおし)の同族で、神八井耳命の孫の武五百建命(たけいほたてのみこと)が崇神(すじん)朝にはじめて任命されたということになる。この『阿蘇氏系図』の記載をもとに、これまで科野国造である金刺舎人・他田舎人両氏と阿蘇氏は同族で、大化改新後に科野国造から諏訪評督系と諏訪大神大祝(おおほうり)系の二流に分かれたこと、阿蘇神社の主祭神とされる武五百建命は科野に進出し、その子瓶玉命(みかたまのみこと)が阿蘇に移住したと理解し、同系図の伝承は基本的に正しいとして、科野国造は多氏で、その根拠地は小県郡であったと考えられてきた。しかし、近年『阿蘇氏系図』の信憑(しんぴょう)性について、幕末・明治の国学者による偽作とする説が出されている。今後の史料的な検討が必要で、現時点では古代史の史料として依拠すべきではないと考えられている。
こうしたなかで、『長野県史』の編さんを契機になされた研究により、五世紀の科野国造は多氏ではなく科野直(あたい)氏で、当初の根拠地は更級郡・埴科郡一帯であり、六世紀の継体・欽明朝以降、科野国造家は更級郡に根拠地をもつ科野直氏から金刺舎人・他田舎人氏に分かれ、のちの伊那郡を根拠地とするようになったという有力な説が提起された。