五世紀の倭国(わこく)の様相を伝える中国の史書によれば、いわゆる倭の五王(讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ))が中国の南朝政権である宋(そう)に使者を派遣し、「安東将軍・倭国王」などの称号を授かっており、中国を中心とした冊封(さくほう)体制に加わったことがわかる。この五人の王は、讃は履中(りちゅう)または仁徳(にんとく)、珍は反正(はんぜい)、済は允恭(いんぎょう)、興は安康(あんこう)、武は雄略(ゆうりゃく)という、「記紀」にみえる「天皇」に比定されている。このうち、最後の武の上表文では日本列島から朝鮮半島にかけて広範な地域をみずからの支配下に入れたことを主張している。そのことは、高句麗好太王(こうくりこうたいおう)碑文・埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘、熊本県江田船山(えたふなやま)古墳出土太刀銘などの史料からも裏づけられ、東国は遅くとも四世紀前半にはヤマト王権の影響下に入っていたと考えられており、したがって善光寺平を中心とした「シナノのクニ」の勢力もそのころにはヤマト王権のもとに入っていたと推定できる。
ここでいう「シナノ」は、もともと千曲川中流域の、律令制のもとで更級(科)郡・埴科郡とよばれるようになった地域のことである。のちに国名「科野(信濃)」に用いられるようになった「シナノ」の語源については、江戸時代以来、大別して科の木(しなのき)説・級坂(しなさか)説・篠説の三説が唱えられ、また埴科・更科・前科(さきしな)など郡名やその他の地名に「科」を冠したものが多いことも注目され、郡名に「科」をもつ更科・埴科地域が「シナノ」の発祥の地であるとの説も唱えられてきた。こうしたなかで、近年屋代遺跡群出土木簡のなかに「讃信(さらしな)郡」「播信(はにしな)郡」と一つの木簡に併記されたものがあることなどから、律令制のもとで更級郡・埴科郡とされた地域が、それ以前には「科野評(ひょう)」として存在し、それが大宝元年(七〇一)の郡制成立時に分割されたことを示すと考えられるようになったのである。
千曲川は甲斐・武蔵・信濃の国境地帯に源を発するが、上田市を過ぎるあたりから流れがゆるやかになり、広大な氾濫原(はんらんげん)と自然堤防を発達させるようになる。「シナノ」はこうした千曲川中流域(現在の坂城町から千曲市にかけての地域)に形成された山すそから川の両岸までのなだらかな傾斜地形(級坂・階坂(しなさか))の呼称に由来し、「ハニシナ」「サラシナ」両郡を総称する地域的呼称となったと考えられるようになった。この地域には、四世紀前半につくられた前方後円墳が所在し、この有力な政治的勢力にたいしてヤマト王権はその首長を地域の支配者として認め、のちに国造とよばれる地位に任命した。「シナノノクニノミヤツコ」という呼称はこの地域の支配者にあたえられたものと考えられている。その後、七世紀半ばの大化の改新をへて、律令国家の地方行政組織である「国」を制定したさいに、「シナノ」は国名として採用されたと考えられるようになった。
ところで、「シナノ」にあてられた漢字表記は、和銅五年(七一二)に撰進された『古事記』では「科野」が、養老四年(七二〇)に撰進された『日本書紀』では一例を除き「信濃」が統一的に用いられている。国名としての「シナノ」の現在確認できる最古の表記は、藤原宮出土木簡の七世紀末と推定される「科野国伊奈評(いなひょう)鹿□大贄(おおにえ)」という木簡である。国名としての「シナノ」は、七世紀後半には「科野」が用いられていたが、大宝令の制定をへて、慶雲(けいうん)元年(七〇四)に諸国の国印がいっせいにはじめて鋳造されたさいに、「信濃」の表記に変更されたことが明らかになっている。このとき、科野と同じ「ノ」の国の「三野」「御野」は「美濃」に、「上毛野(かみつけの)」は「上野(こうずけ)」、「下毛野(しもつけの)」は「下野(しもつけ)」と改称された。
なお、「シナノ」という呼称は、まず人名として歴史書に登場する。古代朝鮮の歴史書である『百済本紀(くだらほんぎ)』などには、六世紀の継体・欽明天皇のころのこととして「斯那奴阿比多(しなののあひた)」「斯那奴(科野)次酒(ししゅ)」「科野新羅(しらぎ)」という「シナノ」を名に負った百済(くだら)人が登場する。これらの人びとは百済からヤマト王権に派遣された使者として史料に登場するが、ヤマト王権の軍事的遠征にともなって朝鮮半島に渡った科野に本拠をもった人びとの子孫、日系百済人で、その出身は科野国造氏だと考えられており、ここから科野の初期の国造のウジ名は「シナノ(科野)」だという考えが提起されている。
このように古墳時代の千曲川中流域を中心とした地域名であった「シナノ」は、その地域に地盤をもつ豪族の名称(ウジ名)になったと推定でき、さらに評名から国名へとその範囲を拡大していったということができる。