大化元年(六四五)の蘇我(そが)氏滅亡、翌二年の大化の改新を契機として、ヤマト王権は中国の律令(りつりょう)制を取りいれ、中央集権国家の確立をめざした。大化改新によって生まれた新政権は、改新の詔(みことのり)の発布(六四六年正月)に先だって、国造(こくぞう・くにのみやつこ)の支配に依拠した地方支配のありかたを改めるために、倭(やまと)(大和)の六県(むつのあがた)に使者を派遣するとともに、まず「東国」を八つの地域(道(どう))に分け、それぞれの地域に中央の官人からなるいわゆる「東国国司」を派遣して、人口や土地の実状を調査させた(写真45)。この「国司」は律令制の国ごとに任命された国司とは性格の異なるものであった。派遣された地域は明確でないが、伊勢・美濃・越前より東の地域と考えられる。注目すべきは東国国司が接触した地方の族長のなかに「朝倉君」と「井上君」がみえ、朝倉君はのちの上野(こうずけ)国那波(なは)郡朝倉郷の在地豪族と推定され、「井上君」は、のちの信濃国高井郡井上の在地豪族と考える説もあり、そうだとすると毛野(けぬ)から科野(しなの)にかけての地域に派遣された東国国司がいたことになる。
『日本書紀』に載せられた改新の詔は四ヵ条からなり、ヤマト王権の支配制度である国造制や部民制を否定し、大宝(たいほう)元年(七〇一)の大宝律令(りつりょう)にいたって完成をみる律令国家の支配制度の大綱を示したものと考えられている。かつて、この詔の文言(もんごん)のなかに大宝令で制定された「郡」の文字があることなどから、詔には律令の条文による潤飾(じゅんしょく)があり、当時のものとは考えられないなどのきびしい史料批判がなされた。しかし、近年の出土文字資料や遺跡・遺物などによって、七世紀半ば以降の『日本書紀』の記述を裏づけられるものが増えていることから、改新の詔は大筋で当時のものであったのではないかとの再評価もなされている。
その後、大化年間から白雉(はくち)年間の孝徳朝において、旧来の国造の支配領域を再編し、全国を「国」に分け、そのもとに「評(ひょう)」とよばれる行政区画を置く政策を実施した。科野の「評」で確実な史料のうえで確認できるものは、さきの藤原宮木簡の「伊奈評(いなひょう)」である。七世紀後半には科野評・水内評・高井評をはじめ、伊奈評・諏訪(須波)評・束間(つかま)評・安曇(あずみ)評・小県(ちいさがた)評・佐久評などが成立していたものと考えられている。このうち、科野評については、平城京長屋王家木簡・屋代木簡などの検討から、大宝令以前は「科野評」として一体であったが、大宝令による郡里制施行を契機に、更級郡と埴科郡に分割された可能性が指摘されている。
天智(てんじ)九年(六七〇)にははじめての全国的戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)が、また持統(じとう)四年(六九〇)には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)にもとづく甲寅年籍(こういんねんじゃく)がつくられている。こうしたなかで、全国を六十余の「国」に分け、それを畿内七道(きないしちどう)に編成する事業は、中央の法制度(律令)・官僚機構・交通制度の整備などとともに天武(てんむ)・持統朝に一気に進められた。持統八年(六九四)に造営され和銅三年(七一〇)まで都であった藤原京から「科野国伊奈評(いなひょう)鹿□大贄(おおにえ)」と記された木簡が出土し、持統・文武(もんむ)朝にはシナノの地も「科野国」として成立し、国の下には「評」とよばれる行政単位が置かれていたことがわかる。
天武元年(六七二)の壬申(じんしん)の乱には、科野の兵が大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)のがわに立って活躍したといわれ、その後天武十三年(六八四)には天武天皇による科野への遷都計画がたてられ、「信濃(科野)国之図」がつくられたが、計画は中止されたらしい。しかし、翌天武十四年(六八五)には「束間温湯(つかまのゆ)」に行宮(あんぐう)(仮宮)をつくらせている。なお、平成十一年(一九九九)に奈良県の飛鳥池(あすかいけ)遺跡から「富本銭(ふほんせん)」が出土し、和同開珎(わどうかいちん)以前にさかのぼる銅銭であることが明らかになった。この富本銭が高森町の武陵地(ぶりょうち)一号墳から明治時代後期に出土していたことや、飯田市内の民家にも保管されていたことがわかり、天武朝における科野への使者の派遣によってもたらされたとの説も出されている。
さらに、持統五年(六九一)の持統朝では、「須波神(すわのかみ)」(諏訪大社=南方刀美(みなかたとみ)神社)「水内の神(みのちのかみ)」(健御名方富命彦神別神(たけみなかたとみのみことひこかみわけのかみ))をまつるよう命じており、七世紀後半の科野は中央政権にとって注目すべき地の一つであったことがわかる。畿内の政権が「シナノ(科野)」(更級・埴科)の地に着目した背景については、ヤマト王権の直轄地である屯倉(みやけ)や、皇室(王家)直属民である「壬生部(みぶべ)」「私部(きさいべ)」が善光寺平に存在したことがあると思われるが、七世紀から八世紀前半の北信濃をとりまく政治情勢もかかわっていると考えられる。七世紀半ばころには唐帝国の隆盛を契機に対外的緊張が高まり、畿内の政権は急速に律令制の導入をはかり、唐帝国になぞらえてみずからも小帝国の形成をはかった。大化三年(六四七)には越(こし)の蝦夷(えぞ・えみし)に備えるために渟足柵(ぬたりのき・さく)(新潟市付近)がつくられ、翌四年(六四八)には磐舟柵(いわふねのき・さく)(新潟県村上市付近)がつくられて、越と科野から柵戸(きのへ・さくこ)が派遣されるなど、「シナノ」の地をふくむ北信濃は陸路における前線に位置していた。
屋代遺跡群(千曲市)から出土した木簡のなかには、七世紀半ばから末までの時期のものがふくまれているが、これは屋代遺跡群の地が七世紀半ばから重要な行政拠点であったことを示している。このように、科野国成立をめぐる政治情勢としては、越の蝦夷対策にともなって越と科野を結ぶ千曲川および千曲川に沿った陸路のルートが重要性を増し、北信濃がその前線となったことが特徴といえる。