大宝(たいほう)元年(七〇一)の大宝律令(りつりょう)により、地方行政の機構も国評里制から国郡里制へとあらたまった。大宝四年には全国の国印がいっせいに鋳造され、それを契機に国名に用いる文字が「信濃」に決定された。各国には都から中下級の官人が国司として派遣され、国府で政治をおこなった。平安時代の『延喜式(えんぎしき)』で信濃は大・上・中・下の国の等級のうち上国で、国司の定数は守(かみ)一人・介(すけ)一人・掾(じょう)一人・目(さかん)一人・史生(ししょう)三人という構成であった。
評の制度のもとでは、行政・軍事・祭祀(さいし)の権限は国造(こくぞう)のもとにあった。大宝律令で郡・軍団・国造(律令制以前の国造と区別して新国造ともいう)・国師(こくし)の制度が決められ、行政権は郡司(ぐんじ)が、軍事指揮権は軍団が、神祇(じんぎ)は「国造」が、仏教(寺院)は国師が担当した。このように律令制以前の国造は権限を分割されたが、なお郡司ら地方豪族の勢力は大きなものがあった。国司はかれらの地域支配に依存しつつ、かれらを統括して国内政治をおこなった。
大宝律令では官僚制が整えられ、すべての行政は文書によることが定められた。屋代遺跡群から信濃国司が「更科郡司等」にあてた命令書(国符)の木簡が見つかっている。この木簡は八世紀初頭前後の土層から出土しており、大宝律令が施行されてまもないころの国司の命令書であると考えられる。通常、国司の命令等は紙の文書によると考えられてきたから、こうした木簡が見つかった意義は、地方政治の具体的なすがたを考えるうえできわめて大きい。たとえば、この国符が「更科郡司等」にあてて発行されたにもかかわらず、当時埴科郡に属したと考えられる屋代遺跡群から出土したという問題がある。この点は、更級郡・水内郡・高井郡・埴科郡と逓送(ていそう)され、最終郡である埴科郡家(ぐうけ)で廃棄されたと考えられている。ここから当時更科(級)郡から埴科郡にいたる四郡が一つの行政ブロックを構成していたことが推定され、そのことはほかにも伊那・諏訪、筑摩・安曇の二ブロック、小県・佐久の一ブロックが存在した可能性を示している。信濃のように面積が広く、山地や水系によって多くの盆地に分割されている国では、国と郡とのあいだに広域的な行政機構が必要であったものと考えられる。そう考えると、これらのそれぞれのブロックに隣接して信濃国府が立地した可能性が考えられ、更級・小県・筑摩などが当時国府が所在した可能性のある郡ではないかと推定される。
文献史料上では一〇世紀に編さんされた『和名抄(わみょうしょう)』(流布本)巻五の信濃国の項に「国府在筑摩郡」の注記があることから、平安時代中期には筑摩郡に国府が所在したことが知られる。律令制の成立した当初は小県郡に国府が所在したとする考えがこれまで定説とされてきた。この説では、平安時代の初期、長岡京から平安京に都が移った八世紀終わりころ、信濃でも小県から筑摩へ国府が移ったと考えている。もう一つの問題は、養老五年(七二一)から天平(てんぴょう)三年(七三一)の一〇年間にわたって信濃国から分置された「諏方(すわ)国」の問題である。諏方国を構成する郡については、諏方・伊那の二郡をふくめる点では共通するが、そこに筑摩・安曇の二郡をふくめる説もあり、国府の設置された郡についても諏方郡内説・筑摩郡内説がある。後者の筑摩郡内説の場合、小県から筑摩への移転を諏方国廃止の時点に求める考え方もある。
小県郡に国府の所在を求める最大の根拠は、信濃の国分寺(こくぶんじ)・国分尼(に)寺が発掘により上田市国分の地で確認されたことにある。国府と国分寺は一般的傾向として近接したところに立地するからである。国分寺跡の北がわには「こうのだい」とよばれる台地があり、近年古代の瓦(かわら)や道路状の遺構などが検出されていて、国府跡とみる説がある。ただ国府にかかわる遺構・遺物が検出されていない現状では断定することはできない。国分寺造営は八世紀半ば過ぎであるので、それ以前の「諏方国」が置かれた養老五年から天平三年ころとそれ以前については、「諏方国」の範囲ともかかわって信濃国府の所在地には今のところ決め手がないことになる。
こうしたなかで、律令国家成立期の当初から国府が完備していたのではなく、はじめは郡家に付属する形で存在した可能性があるとする考え方が重要になる。屋代遺跡群からは遺構は検出されていないものの、木簡群の検討から遺跡周辺に埴科郡家のほかに軍団の存在も想定され、さらに科野の初期の国府の存在も想定されている点は注目される。最近の全国の発掘成果によれば、国庁をともなう国府跡が遺構として確認できるのは八世紀半ば前後以降のことであることが明らかになってきている。屋代遺跡群周辺に国司の執務施設が所在したとしても、その施設は八世紀半ば以降の整備された国府とは建物構成や配置が異なる可能性もある。屋代遺跡群の八世紀の遺構や木簡をふくむ出土資料が七三〇年代ころ突然みえなくなることは、この地に置かれた官衙(かんが)の存在に変動があったことを物語っている。信濃の国府跡については、すべて今後の発掘調査を待たなければならない。
ところで、ヤマト王権の東国進出のルートが太平洋がわの海上ルートにあり、関東へ上陸後、東北、越(こし)へ向かうというルートであったことが明らかにされ、信濃についても律令国家初期の国府の立地が碓氷(うすい)峠から千曲川流域を通って越へ向かうルート上に存在した可能性が高いことは興味深い。武蔵(むさし)・相模(さがみ)・甲斐(かい)などの国府も同様に国域の東部ないし南部に位置しており、信濃と同様の傾向がうかがわれる(井原今朝男「東北信濃と上越地方の歴史」『街道の日本史』25(吉川弘文館))。こうしたなかで信濃国府が千曲川流域から筑摩郡に移る契機としては、律令国家の東北政策の進展にともなう東山道(とうさんどう)ルートの重要性の増大、諏方国問題にみられる国内の政治構造の変化などが想定される。信濃と畿内とのルートを東山道のみに最初から限定する考え方は再検討を必要としている。