北信濃の郡と郡司

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律令制では国の下に全国で五百五十余の郡が置かれた。各郡には大領(たいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)の四等官で構成される郡司(ぐんじ)が任命されたが、なかでも大領・少領は郡領と総称された。その人数は大(二〇~一六里)・上(一五~一二里)・中(一一~八里)・下(七~四里)・小(三~二里)の等級によって異なっていた。信濃国の郡については、平安時代に編さんされた『延喜式(えんぎしき)』や『和名抄(わみょうしょう)』に「伊那、諏方、筑摩、安曇、更級、水内、高井、埴科、小縣、佐久」の一〇郡が記されている。北信濃の郡を構成する郷(里)は、更級郡九郷、水内郡八郷、高井郡五郷、埴科郡七郷で、更級・水内・埴科が中郡、高井が下郡ということになる。また、さきにふれたように、「更級・埴科」両郡が大宝令以前の国評制のもとでは「科野評」として一体であった可能性が指摘されるようになったが、仮に科野(信濃)郡の時期があったとすれば、それは一六郷(里)で、大郡ということになり、中郡以下に郡の規模を整えるために分割した可能性が考えられる。


写真48 信濃国の郡・郷 『和名抄』(高山寺本)
(天理大附属天理図書館本複製第5989号-1,2)

 また、和銅六年(七一三)に諸国郡郷名は好字(こうじ)を用いることが命じられているが、屋代木簡では八世紀初めは「更級郡」「束間(つかま)郡」の表記が用いられており、中野市の清水山窯跡(ようせき)では「佐玖(さく)郡」と記された奈良時代前半の須恵器(すえき)も見つかり、さらに、長屋王家木簡では「讃信(さらしな)郡」(更級郡)「播信(はにしな)郡」(埴科郡)といった郡名表記もあり、大宝令で定まった郡についても、表記という点では奈良時代前半ではなお流動的であったことがわかる。

 郡家(ぐうけ)の所在地については、これまで恒川(ごんが)遺跡(飯田市)が伊那郡家であることがほぼ確かであるのみで、ほかについては確実な遺構が見つかっていない。更級郡家については千曲市の郡(こおり)地籍に、水内郡家については善光寺周辺(元善町遺跡、県町遺跡など)に、高井郡家については須坂市の長者屋敷地籍周辺に比定する説がある。また屋代遺跡群の周辺に想定される埴科郡家や初期の信濃国府などについても、遺構が確認されておらず、その確定は今後の調査を待つ必要がある。

 律令制では、各国内に兵士一〇〇〇人を上限に軍団を置くことが規定されている。各軍団は国司の監督下にあり、郡司の一族軍毅(ぐんき)(大毅(だいき)・少毅(しょうき))をつとめた。信濃国にあった軍団についてはこれまでその軍団名も所在地も不明であった。屋代木簡のなかには軍団にかかわる木簡があり、八世紀はじめの木簡に「少毅」の職名が記されていた。このことから、屋代遺跡群周辺に想定される埴科郡家に近接して、軍団も存在したと考えられている。

 こうした郡を支配する郡司については、信濃では国造の系譜を引く伝統的な豪族である金刺舎人(かなさしのとねり)・他田(おさだ)舎人両氏が、奈良から平安時代にかけて伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占めていたことが知られている。屋代木簡のなかに「金刺部」「他田部」の記載がみられ、両氏の根拠地が善光寺平(埴科・更級)であることが確認できるが、信濃国内における系譜関係など不明な部分も多く、今後の検討が必要である。

 奈良時代には信濃を代表する郡司として伊那郡大領金刺舎人八麻呂(はちまろ)の名が知られるが、金刺舎人氏や同族の他田舎人氏は、平安時代になっても信濃を代表する豪族として活躍している。貞観(じょうがん)四年(八六二)には、埴科郡大領金刺舎人正長・小県郡権(ごんの)少領他田舎人藤雄が外従五位下(げじゅごいげ)に叙され、また翌五年(八六三)には右近衛将監(うこんえのしょうげん)金刺舎人貞長が大朝臣(おおのあそん)への改姓を許され、翌年には右近衛将監長田(他田)直(あたい)利世とともに外従五位下を授けられている。直後に他田直利世は朝臣の姓を賜っている。貞観九年(八六七)には大朝臣貞長は三河介(みかわのすけ)、他田朝臣利世は下野介(しもつけのすけ)に任じられている。

 いっぽう、貞観八年(八六六)には、寂光(じゃっこう)寺(伊那郡)・錦織(にしきごり)寺(筑摩郡)・安養(あんよう)寺(更級郡)・屋代寺(埴科郡)・妙楽寺(佐久郡)の五ヵ寺が定額寺(じょうがくじ)になっており、これらの五ヵ寺が各郡司の氏寺(うじでら)と考えられることから、その背景に大朝臣貞長・他田直利世らの都での活躍があり、信濃の同族とかれらのあいだの密接な結びつきが想定されている。

 奈良時代から平安時代のはじめの信濃の地方政治は、金刺舎人・他田舎人両氏の動きを中心に展開したものと思われるが、かれらの金刺舎人氏・他田舎人氏としての名前は一〇世紀以降、諏訪社の神官としてみえるのみになり、政治史の表舞台からは姿を消すことになる。