善光寺平の歴史的環境

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平安時代の『延喜式(えんぎしき)』によれば、信濃国は伊那・諏訪・筑摩(つかま)・安曇(あずみ)・更級・水内(みのち)・高井・埴科(はにしな)・小県(ちいさがた)・佐久の一〇郡からなりたっていた。さきに述べたことだが、これらの郡は、その地形的要因などにより、伊那・諏訪、筑摩・安曇、更級・水内・高井・埴科、小県・佐久の四ブロックに分けることができる。善光寺平は更級、水内、高井、埴科の四郡で構成されるが、平安時代半ばにはこれら四郡に合わせて二九の郷(更級郡九郷、水内郡八郷、高井郡五郷、埴科郡七郷)があった。これは信濃全体七六郷(『和名抄(わみょうしょう)』流布本)の約四二パーセントにあたる。また、『延喜式』に記載されたこれら四郡の祭神の数も三一座で、信濃全体の四八座の六五パーセントを占めるなど、善光寺平の四郡は、信濃のなかで人口の集中する地域であったことがわかる。これら四郡のうち、更級郡は九郷から構成され、郷の数では信濃でもっとも多いことから更級郡は中心的な郡であったといえる。

 ところで、「郡」は、七世紀後半の孝徳朝に「評(ひょう)」として成立したものが、大宝(たいほう)元年(七〇一)の大宝令(りょう)によって「郡(こおり)」の制度に再編成されてできあがった古代の地方行政機構である。郡はその下の単位である里(り)(郷)が明確な境界をもたなかったのとは異なり、そのなかに郡の役所である郡家(ぐうけ)が配置され、郡家どうしを結ぶ伝路が通り、さらには東山道(とうさんどう)などの官道などが通過したり、あるいはその領域のなかに国府が置かれる郡もあるなど、古代の地方行政をになうひとまとまりの領域として設定された。郡と郡の境は、大河や山地といった自然地形によることも多く、善光寺平の四郡をみると、水内郡と更級郡との境は犀(さい)川、水内郡と高井郡は千曲川、更級郡と埴科郡も千曲川によって区分されていた。郡のなかは、郡家、官道(水運をふくむ)、さらに条里(じょうり)や用水、耕地、居住域などが一つのまとまりをもって構成されていたのである。

 これらの郡名の由来には、埴科・更級両郡は、「科野評(郡)」とよばれていたものが、大宝令施行を契機に二つの郡に分割された可能性が想定されているが、その根拠の一つに前に述べたように両郡が「シナ」を共有する郡名であることがある。千曲川によって形成された傾斜地形「シナ」が、郡名の由来にもなっていると推定されるのである。いっぽう、埴科郡に隣接する小県郡や高井郡についても、千曲川との関連が指摘されている。小県は従来大和王権の地方組織と考えられている「県(あがた)」に由来すると考えられてきたが、「県」の設置は畿内(きない)を中心とした地域であることや、「小県」の読みを『和名抄』では「ちいさかた」としていることから、「小さな潟(かた)」が原義ではないかとする説が唱えられている(『市誌』②)。千曲川が蛇行して形成した中州(なかす)や氾濫原(はんらんげん)の湿地帯に由来すると考えるのである。また、高井は東部山地から千曲川に流れこむ小河川(百々(どど)川・松川・夜間瀬(よませ)川など)が形成した扇状地地形に特徴があり、千曲川のつくりだす低地にたいし高燥(こうそう)な地形を指すと考えられている。

 「水内」もこうした千曲川にちなんだ名前と考えられ、「みずのうち」すなわち千曲川と犀川をはじめ裾花(すそばな)川・浅川・鳥居川などに囲まれた「水(川)のなかにある」土地という意味ではないかと推定されている。

 水内郡は、千曲川左岸にあり、犀川以北に位置している。郡の中心は、千曲川・犀川・浅川・裾花川によって形成された複合扇状地=浅川扇状地・裾花川扇状地(現在の長野市街地)にあり、芋井・大田・芹田(せんだ)・大島・古野・赤生(あかふ)・中島(なかしま)の八つの郷と、九座の式内社(しきないしゃ)がある。郷の数では小県・佐久両郡と同じで更級郡につぎ、式内社の数でも更級郡についでいる。水内郡は更級郡とならぶ人口集中地域であり、先進地域であった。このことから、古代の水内郡の中心がこの地域にあったことが推定される。

 遺跡の面では、地附山(じづきやま)古墳群、吉(よし)古墳群、三才(さんさい)古墳群、浅川若槻(わかつき)古墳群が、現長野市街地の西部の山麓(さんろく)に立地している。この古墳群の特徴は、高井郡の大室(おおむろ)古墳群とならび積石塚(つみいしづか)や合掌形(がっしょうがた)石室が多く分布することである。

 またこの複合扇状地の扇央から扇端にかけての長野市街地には広範囲に条里的遺構が広がっている。北限は今のところ豊野町で、石(いし)・蟹沢(かにさわ)地区に条里的遺構が存在した。この条里的遺構の分布する旧長野市街地から犀川・千曲川によって形成された自然堤防が分布する地域に古代の郷が展開していたものと考えられる。ただし、大島・中島・赤生の三郷については比定地がかならずしも明確でない。大島の遺称地としては現小布施町大島(おおじま)が、中島については須坂市中島(なかじま)があげられ、それぞれ対岸からの移転伝承をもつ。千曲川が高井郡と水内郡の郡ざかいで古代の両郷が他の郷同様に千曲川左岸にあったとすれば、千曲川の流路の変更によって郷自体が埋没してしまった可能性があると思われる。赤生郷については遺称地もなく現在のところまったくその手がかりがない。

 水内郡における条里的遺構は、現在では圃場(ほじょう)整備により条里的景観が失われてしまい、条里的遺構の正確な成立年代などは不明だが、のちに述べるように鐘鋳(かない)川(堰(せぎ))・八幡(はちまん)川(堰)による用水体系の分析から、およそ九世紀初めには条里地割が施工されはじめていたと推定される。

 郡内の廃寺跡をみると、若槻廃寺跡出土瓦や現善光寺境内出土瓦などからその存在が推定される。水内郡家(ぐうけ)については、かつて現在の長野市県町の県町遺跡付近がその候補地と考えられていた。現段階で水内郡家の遺構は検出されていないが、近年、善光寺周辺の地(「権堂(ごんどう)」がその跡を伝える遺称地)に古代に善光寺の元となった寺院が存在し、それが郡寺、すなわち郡家付属の寺院としての性格をもつものであるとする見解が出されている。おそらくは現在の善光寺の周辺に郡家とそれほど距離を隔てず存在した可能性が高いと考えられる。


写真49 若穂方面から長野市市街地を望む
千曲川(手前)に犀川が流れこむ (協同測量社提供)