六世紀半ば、朝鮮半島から列島社会に仏教が伝わった。
『日本書紀』によれば、欽明(きんめい)十三年(五五二)に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が釈迦仏(しゃかぶつ)・経論(きょうろん)などをもたらしたとされる。これが仏教の公伝(こうでん)である。善光寺平における仏教伝播(でんぱ)のようすを示すものには、いわゆる白鳳(はくほう)寺院にかかわる遺構と遺物、それに小金銅仏がある。
白鳳時代の寺院跡としては、七世紀第Ⅲ四半期と考えられている明科(あかしな)廃寺跡(明科町)、七世紀代の創建と推定される雨宮(あめのみや)廃寺跡(千曲市)がある。とくに後者は屋代遺跡群との関係も考えられ、科野評(埴科郡・更級郡)と関係深い寺院ということができる。
白鳳期の特徴をもつ古瓦(こがわら)が出土している遺跡としては、上川路(かみかわじ)廃寺跡(飯田市)、天神反(てんじんぞり)遺跡(望月町)、周防畑(すおうばた)遺跡群(佐久市長土呂(ながとろ))などのほかに、上石川廃寺跡(篠ノ井石川)、元善町(もとよしちょう)遺跡(長野市)、左願寺(さがんじ)遺跡(須坂市小河原)などがある。このうち、元善町遺跡は「善光寺」の草創ともかかわって、その評価が問題とされてきた。
そもそも「善光寺」の名が確実な文献に登場する初見は一〇世紀の『僧妙達蘇生注記(そうみょうたつそせいちゅうき)』という書物で、そこにはじめて「水内郡善光寺」とみえる。元善町遺跡は現善光寺境内および周辺であるが、ここから出土する古瓦のうちには、白鳳期の様相をもつものがあるとされてきたが、時期を断定するにはいたっていない。善光寺の草創を確定できる資料は見いだされていないのである。
平安時代後期にさかんになった浄土思想を背景に善光寺信仰が形づくられたが、その由来を記した「善光寺縁起(えんぎ)」は、大江匡房(おおえのまさふさ)の周辺に集まった都の貴族や僧侶によって創作されたもので、そこに記された草創の由来を、そのまま史実としてとらえることはできない。
いっぽう、鎌倉時代前期に成立した国語辞書である『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』の「善光寺」の項に七世紀前半のこととして善光寺の仏像やその霊験(れいげん)と、それをもたらした若麻績東人(わかおみのあずまひと)に関する伝承(縁起)が記されている。これも、これまで史実とはとらえられてこなかったが、この伝承が成立した院政期から鎌倉初期ころの知識による文飾を考慮して読み返すと、院政期ころ語られていた善光寺仏の由来や霊験譚(たん)、仏教を安置する善光寺の由来、さらには「本善堂」と称する元は「草堂」であった建物の由来が整合的に語られており、この伝承のなかに善光寺草創にかかわる史実を見いだす余地があるとする見解が示されている。すなわち「百済伝来との伝承のある仏像が、推古朝のころに大和より科野にもたらされ、皇極(こうぎょく)朝のころに水内地方に移された」という史実を読みとることができるとしている(『市誌』②第二章第三節)。
北信濃への仏教の伝播のようすを考えるもう一つの資料は、日本海に面した北陸地方を中心に分布する飛鳥(あすか)・白鳳時代の様式をもつ小金銅仏である。この小金銅仏のなかには朝鮮半島から直接もたらされたとみられるものも多くふくまれており、日本海沿岸地域と朝鮮半島との密接な関係を物語るものと考えられている。県内にもこうした飛鳥・白鳳期の特徴をもつ小金銅仏が二体確認されている。長崎県対馬(つしま)の浄林寺の仏像と酷似する北安曇郡松川村の観松院(かんしょういん)に伝わる菩薩半跏(ぼさつはんか)像と、山千寺(さんぜんじ)(若槻吉)に伝わる観音菩薩立像である。後者の伝わる地区の近くには市内有数の群集墳である吉(よし)古墳群があり、渡来人の墓制と考えられる積石塚古墳がふくまれていることから、渡来人と小金銅仏の伝来を結びつけて理解できる可能性がある。これらの小金銅仏が当初から現在の場所にあったと断定することはできないが、もしそうであるとすれば、北信濃と日本海沿岸地域、朝鮮半島とのつながりを示すものとして貴重である。
なお、篠ノ井遺跡群(篠ノ井)からは、奈良時代のものと推定される塼仏(せんぶつ)(仏堂の壁面などを装飾する仏像の焼き物)、平安時代初めの塼仏や瓦塔(がとう)(塔や仏堂を模した陶製の焼き物)が出土しており、それに隣接する石川地区には「方田塔(ほうだとう)」(写真50)があり、奈良時代末から平安時代初めころにつくられた多層塔と考えられている。奈良時代から平安時代初めには、地域の人びとのなかに仏教が浸透しはじめたことを示している。
日本固有の信仰が神や神社として意識され整備されるのは、仏教が日本に伝わったことに起因する。仏教公伝によりいわゆる「崇仏排仏(すうぶつはいぶつ)論争」が起こったと『日本書紀』が伝えるが、仏教を異国から渡来した蕃神(ばんしん)とすることで、固有の「神」という考えが生まれたのである。
信濃の神の初見は七世紀末の持統(じとう)天皇の時代に、中央政府が使者を派遣して「竜田(たつた)風神、信濃の須波(すわ)、水内(みのち)等の神」をまつったとする『日本書紀』の記事である。竜田風神は奈良県生駒(いこま)郡三郷町(さんごうちょう)にある竜田神社である。信濃の二神については、須波神は現在の諏訪大社上社の祭神である建御名方富命神(たけみなかたとみのみことのかみ)をさすが、水内神については、現在の戸隠神社にあてる説と『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)の「建御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)」にあてる説があり、後者が通説となっている。この時期に信濃の二神が登場する背景については、さきにふれたように、中央政府の越(こし)にたいする政策とかかわって、信濃の地がその前進基地として重要であったことがあると思われる。
律令制のもとで、神や神社も中央政府によって編成されていった。祈年祭(としごいのまつり)にさいして神祇官(じんぎかん)が幣帛(へいはく)をささげる神社を官社といい、官社制度が整っていた。『延喜式』神名帳に記された信濃の官社は四六社四八座であるが、そのうち更級郡に一一座、水内郡に九座、高井郡に六座、埴科郡に五座のあわせて三一座(六五パーセント)を数える。郷の数も前記したように信濃全体の六七郷のうち四郡で二九郷(四二パーセント)を占めている。