屋代木簡の語るもの

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これまで、七世紀以前の歴史については、同時代に記された確実な文献史料がほとんどないため、考古学などの研究成果とともに八世紀に律令国家が編さんした『古事記』『日本書紀』などの歴史書や、平安時代の『延喜式』『和名抄』などの法令集や辞書、さらにはヤマト王権の政治制度である御名代(みなしろ)の制度に由来する氏名(うじな)・人名・地名などからの類推によって述べられてきた。

 ところが、平成六年(一九九四)に上信越自動車道の建設にともなう発掘調査で、千曲市屋代・雨宮(あめのみや)の屋代遺跡群から一三〇点の七世紀後半から八世紀前半の時期に属する木簡(もっかん)が出土し、また若穂川田の榎田(えのきだ)遺跡でも古代の木簡が出土した。信濃の現地の古代のようすを直接示す第一級史料であることから、これまでの信濃の古代史を見なおす必要が生まれたのである。

 屋代木簡のなかには、元号によって年紀が記されるようになる「大宝元年(七〇一)」以前の「乙丑(きのとうし)年(六六五)」の年紀をもち、「他田舎人古麻呂(おさだのとねりこまろ)」と記されたもの、信濃国司から更級郡司等にあてて出された国符(こくふ)木簡、埴科郡司(ぐんじ)から管内の屋代郷長・里正(りせい)等に神事の用途の調達を命じた郡符(ぐんぷ)木簡、屋代遺跡群周辺に軍団があったことを示す「少毅(しょうき)」という軍団の職名を記した木簡、奈良時代における九九算の普及を示す木簡、埴科郡や更級郡の郷や里から屋代遺跡群付近に所在した施設に税が納められたことを示す荷札木簡などがふくまれていた。また「乙丑年」以外にも「戊戌(つちのえいぬ)年(六九八)」「養老(ようろう)七年(七二三)」などの年紀を記載したものや、豊富な地名や人名もふくまれており、信濃の古代史を明らかにする新たな史料が登場した。

 屋代木簡から明らかになった新たな事実のうちもっとも重要な点は、この遺跡周辺に、埴科郡家(ぐうけ)があった可能性が指摘できるのみならず、軍団や初期の科野国府、さらには更級・埴科両郡の物資集積施設が存在した可能性がきわめて高いということである。


写真51 大量の木簡が出土した屋代遺跡群⑥区 (県立歴史館提供)

 古墳時代前期から中期にかけて前方後円墳がつくられ、大和王権から善光寺平南部の支配を認められた更埴地域の首長連合は、古墳時代後期には伊那谷に起こった首長に前方後円墳の造営に示されるように首長権を譲った。そのころの伊那谷に本拠を置く豪族は、欽明(きんめい)天皇の宮や敏達(びたつ)天皇の宮に出仕し、それぞれの宮の名前を負う金刺舎人(かねさしとねり)・他田(おさだ)舎人を称したと思われる。ところが、屋代木簡のなかに見える人名には、刑部(おさかべ)・小長谷部(おはつせべ)・金刺舎人・他田舎人・壬王部(みぶべ)(壬生(みぶ)部)・物部(もののべ)・尾張部(おわりべ)・神人部(かんひとべ)など信濃国に分布することが知られていたもの以外に、三枝部(さえぐさべ)・金刺部・他田部・若帯部(わかたらしべ)・穂積部(ほづみべ)・守部(もりべ)・小野部・酒人部(さかひとべ)・宍部(ししべ)・宍人部(ししひとべ)・三家人部(みやけひとべ)・石田部・戸田部など信濃でははじめて知られたものがある。これらの氏名や部の存在から、大和王権や畿内の豪族に奉仕する集団が設定されたことが知られる。そのうち、その性格が明らかなものでもっともさかのぼるものは、五世紀末の小長谷部で、以後七世紀初頭ころまでに順次設定されていったことを示している。とくにこれだけの多様な名を負う氏名や部が確認できることは、この地が六世紀には大和王権やそれを構成する豪族の影響下に入り、それらの経済的基盤となっていたことを示している。前方後円墳の造営が伊那谷に移ったあとに、更埴地域は伊那谷とは別の意味で大和王権の基盤となっていたのである。

 なお、長野市域と直接かかわるものに、「尾張部」と記された木簡がある。これまで、『和名抄』の信濃国水内郡の項に「尾張郷」とあることから、水内郡に尾張郷があり、そのことは古代の尾張部に「尾張部」氏がいたことを物語ると考えられてきた。「尾張部」とは、律令時代以前、おおよそ六世紀から七世紀半ばころに尾張地方に勢力をもった「尾張」氏の経済的基盤として各地に置かれた人びと(部曲(かきべ))のことである。大化二年(六四六)の大化の改新を契機に各氏族に氏(うじ)と姓(かばね)があたえられるようになり、この尾張部という部曲出身の人びとは「尾張部」を氏名として名乗るようになったと考えられている。木簡が発見された地は水内郡ではなく、更級・埴科地域であるので、今の西・北尾張部の地に住んでいたという証拠にはならないが、善光寺平という少し広い視野からみれば、そこに「尾張部」氏がいたことは間違いない。