長野市街地は、裾花川と浅川によってつくられた複合扇状地の扇央から扇端にかけて立地しているが、そこには広範囲に条里的遺構が広がっている。今では市街地となり、かつて水田に覆われていた景観をみることはできないが、戦前の長野市の地図や地籍図、さらには昭和二十一年(一九四六)に米軍によって撮影された航空写真などをみると、全国的にも希有(けう)な条里的遺構の広がりを確認することができる。
条里制とは、大地を一〇七から一〇九メートルの大きな区画で区切り、そのなかを一〇の区画に仕切る地割の制度のことであるが、これは律令制のもとで口分田(くぶんでん)を人びとに分かつための班田収授制と連動して施行され、それが現在まで継承され、その結果条里水田の景観ができたものととらえられてきた。しかし、昭和三十六年からおこなわれた千曲市屋代・雨宮に残る条里地割の発掘調査により、地表面の条里地割の地下に平安時代前期(九世紀)の千曲川の洪水によって埋没した条里地割が存在したことが全国ではじめて明らかになってから、地表面の条里地割をただちに古代にまでさかのぼらせることはできなくなった。
善光寺平は、県内では上田盆地とならんで、もっとも広範囲に条里水田が残存した地域である。古代の更級郡の地域では、市内篠ノ井石川・四宮(しのみや)、千曲市力石(ちからいし)・中村・八幡(やわた)・桑原・稲荷山の各地区に、水内郡の地域では、市内三輪・尾張部を中心とする旧長野市街地と、豊野町石(いし)・蟹沢(かにさわ)の各地区に、埴科郡の地域では市内松代町、千曲市屋代・雨宮(あめのみや)・倉科・森、坂城町南条から中之条の各地区に、高井郡の地域では、市内若穂川田・綿内にみられた。
これらの条里水田がいつごろつくられたかについては、長野自動車道および上信越自動車道の建設にともなう石川条里遺跡、川田条里遺跡、更埴条里遺跡の水田の発掘調査により、九世紀初めころに条里地割による開発がおこなわれた可能性が高いという共通した理解がなされている。
いちばん広範囲に条里水田が存在しながら、水田の発掘調査がおこなわれていない旧長野市街地については、地籍図や航空写真、さらには用水体系の調査からつぎのようなことが明らかになった。
旧長野市街地は、裾花川と浅川の扇状地に立地し、今では都市化のなかでその姿をうかがうことはほとんどできないが、かつては、①三輪・吉田地区、②古牧・朝陽・柳原地区、③浅川以北の若槻地区の三つの地域を中心に広範囲に条里的遺構が広がっていた。
古代・中世の裾花川はこの扇状地を北西から南東方向にいく筋かになって流れていた。その名残は現在も旧市街地の町並みや道路、用水・小河川のなかに北西から南東に向かっているものがあることにうかがうことができる。県庁裏から始まる現在の南・北八幡(はちまん)川(堰(せぎ))が裾花川の旧流路の一つであり、さきの②はその水系によって灌漑されている。また、裾花川を水源とする人工的な用水堰として鐘鋳(かない)川(堰)が開削されたが、①はこれによっている。さらに浅川は③の水源となっている。
これらの地域の条里的開発と用水堰の開削とは密接に関係していた。とくにこの地域の歴史を考えるうえで、鐘鋳川の開削時期がいつかということは大きな問題であった。鎌倉時代の『一遍上人絵詞伝(いっぺんしょうにんえことばでん)』(『市誌』⑫口絵)には、善光寺の南大門の前を鐘鋳川が流れている場面が描かれている。鎌倉時代には鐘鋳川がすでに開削されていたことはここから推定できるが、いつまでさかのぼることができるか。
善光寺の立地する地形は、北西から湯福(ゆぶく)川が流れだし、中世には江戸時代に建立(こんりゅう)された現在の善光寺三門付近を流れていたらしい。湯福川は大変な暴れ川で、善光寺の立地する地面を掘ると、大量の押し出しの土砂が積み重なっていることがわかった。鐘鋳川はこうしてできた舌状(ぜつじょう)台地の縁を等高線に沿って善光寺の南西から北東に回りこむように開削されている。人工的な堰であるゆえんだが、この鐘鋳川が開削されたのは、八世紀末から九世紀初めのころで、三輪・吉田の条里の開発もこの時期ではなかったかと考えられるのである。
もうひとつ明らかになったことがある。さきの航空写真でみると、善光寺の仁王門付近を東西に通る道筋がある。現在の仁王門付近は、旧善光寺境内の東・西の門をつなぐ線上に位置している。この東西の道筋がじつは三輪・平林・和田・石渡(いしわた)・北尾張部へとつづく「中道(なかみち)」で、江戸時代以前から善光寺への東からの参詣路であり、また条里の線上に乗ることがわかった。江戸時代以前の善光寺は条里の線を基準に立地していたのである。なお、この「中道」の起源は、善光寺付近に存在したと考えられる水内郡家(ぐうけ)と、須坂市塩川付近にその位置を比定する説のある高井郡家とを結ぶ道(伝路)である可能性がある。