八・九世紀、文献には信濃に幾度となく天候不順や自然災害が起こったことが書き留められている。承和(じょうわ)八年(八四一)には信濃で地震が発生した。一夜に一四回も震動し、国府や郡家(ぐうけ)の建物をはじめ民家にも大きな被害があったという。この地震による噴砂(ふんさ)と思われる跡が、篠ノ井遺跡群の住居跡から見つかった。仁和(にんな)四年(八八八)五月には千曲川が氾濫(はんらん)し、いわゆる仁和の大洪水が起こった。その被害は、佐久・小県・更級・埴科・高井・水内の六郡におよんだと文献に記されている。この洪水によると思われる厚い砂に埋もれた水田跡がはじめて確認されたのは、昭和三十六年(一九六一)から四十年におこなわれた千曲市の条里的遺構の学術発掘調査であった。現在の水田の下に過去の洪水で埋没した条里水田があることが明らかになったのである。その後、上信越自動車道の建設にともなう広域におよぶ発掘調査によって、更埴条里遺跡のほか石川条里遺跡・川田条里遺跡など善光寺平の水田遺跡が明らかになった。
信濃各地で八世紀末から九世紀にかけての平安時代のムラのようすも明らかになってきている。その先鞭(せんべん)をつけたのが長野自動車道の松本平(奈良井川以西)での発掘調査であった。下神(しもかん)遺跡(松本市)や吉田川西遺跡(塩尻市)などから、多くの奈良時代から平安時代の遺構・遺物が発見され、それまで開発の手がおよばなかったこの地域が、この時代にいっせいに開発されていったことが明らかになったのである。
長野自動車道・上信越自動車道・北陸新幹線の建設を契機におこなわれた善光寺平の大規模発掘調査でも、こうしたようすは裏づけられつつある。篠ノ井遺跡群(篠ノ井)では、千曲川によって形成された自然堤防上に、弥生時代以来、集落が連綿と形成されたことがわかった。また、松原遺跡(松代町東条)では、九世紀後半から一〇世紀にかけて集落を環壕(かんごう)状の溝が囲み、精錬炉(せいれんろ)状の遺構や仏具の鋳造遺物が見つかった。これにつづく一〇~一一世紀の時期には、これまで開発の手がおよばなかった川中島(犀川)扇状地の扇端部に集落が密集するようになる。
南宮(なんぐう)遺跡(篠ノ井東福寺)からは、八稜鏡(はちりょうきょう)四面、帯金具(おびかなぐ)、火熨斗(ひのし)、「宗清」と記された陶製の私印などの遺物も出土し、ここが当時勢力をもちつつあった有力者を中心とする集落であったことを示している。篠ノ井遺跡群などの自然堤防上に立地していた集落が、川中島扇状地へと、その開発の対象を拡大していったことがわかる。
榎田(えのきだ)遺跡(若穂綿内)は、古墳時代を中心とする集落遺跡であるが、平安時代はじめの九世紀後半から一〇世紀にかけての溝から収穫物の数量を日ごとに記した記録木簡や「乙貞」と記された墨書(ぼくしょ)土器が出土した。この遺跡は、文献史料には残らなかった荘園(しょうえん)の遺跡であるか、または郷の収穫物を収納・管理する施設が置かれていた集落であった可能性が考えられる。