新しい政治のしくみ

157 ~ 159

平安時代の九世紀には信濃各地の農村で耕地の荒廃や百姓の没落がすすみ、それまで村々をとりまとめてきた郡司(ぐんじ)は伝統的な権威のみで支配をつづけることができなくなった。郡司の一族のなかにはこうしたなかで没落する者があらわれるが、いっぽうで百姓に稲を貸しつけたり納税を代納する「富豪の輩(ふごうのともがら)」すなわち富裕者、新興有力者が台頭する。信濃の場合、郡司一族が平安時代に入っても支配を維持することが多かったが、また国司である橘良基(たちばなよしもと)と争った筑摩郡人の辛犬甘(からいぬかい)秋子のような新興有力者もいた。

 政府はかれらに郡政を請け負わせて地方政治の立て直しをはかった。貞観(じょうがん)四年(八六二)に埴科郡大領金刺舎人(かねさしのとねり)正長が外(げ)従七位上から従五位下に、小県郡権(ごんの)少領他田舎人(おさだのとねり)藤雄が外正八位下から外従五位下に叙されたように、五位の郡司が登場し、有力者による郡政の請け負いが政府の政策として推しすすめられた。八世紀後半から九世紀にかけて松本平を中心にすすめられた未開地の再開発、八世紀後半から九世紀初頭ころに善光寺平ですすめられた条里水田の再開発などは、こうした郡司や新興有力者層を国衙(こくが)が組織してすすめた事業であったのではないかと考えられる。

 いっぽう、貞観五年に諏訪郡人の右近衛将監(うこんえのしょうげん)正六位上金刺舎人貞長が「大朝臣(おおのあそん)」に改姓し、貞観八年には外従五位下に叙されるなど、信濃の郡司をつとめていた金刺氏の一族のなかで、信濃の地を離れ都を拠点として活動する人びともいたことを示している。こうした動きは、すでに天長五年(八二八)に筑摩郡に本拠をもつと推定される錦部(にしごりべ)氏が高橋姓を得て本籍を信濃から左京に移したり、貞観九年に高井郡の従八位上物部(もののべ)善常が山城(やましろ)国紀伊郡に本籍を移したりしており、信濃の本籍を離れ、都で中央官人としての道を歩みはじめる人びともいた。九世紀を中心に信濃の豪族分布にも大きな変化が起きていたものと思われる。

 こうしたなかで一〇世紀になると、地方行政は受領(ずりょう)とよばれるようになった国司が請け負い、戸籍・計帳制度が崩れて、税制も人別に賦課される租庸調(そようちょう)制から、土地の面積にたいして賦課(ふか)される官物(かんもつ)・臨時雑役(ぞうえき)制にかわった。国衙は九世紀に台頭した新興有力者が経営する耕地を「負名(ふみょう)」「負田(ふでん)」として把握し、かれらに納税義務を負わせた。納税率や納税品目は国ごとに異なり、政府に納める基本額は固定されるようになった。信濃の場合、どのように郡司層や新興有力者を組織したのか史料がなく不明であるが、郷や村を単位に租税が徴収されていたと考えられている。また租税(官物)の品目も、麻布(まふ)を中心とする軽物が基本的税目であったらしい。とくに信濃産の麻布は平安時代以降「信濃布(ふ)」とよばれるブランド品になり、宮廷でおこなわれるさまざまな儀式の引き出物などとして珍重された。

 受領は政府から国内支配を請け負い、一定額の官物(租税)を政府に納めれば、それ以上国内支配に政府は介入しなくなった。受領はそのために一族・郎等(ろうとう)や有官散位(うかんさんい)とよばれた都の下級官人を引き連れて任国にくだり、かれらを代官である目代(もくだい)や国使に任命した。こうしたなかで、地元の郡司層や新興有力者は受領のもとに組織されて国の行政をおこなうようになった。かれらははじめ「雑色人(ぞうしきじん)」とよばれたが、一一世紀ころには在庁官人(ざいちょうかんじん)として受領や目代のもとで国内の行政をおこなうようになった。松本市宮淵から蝶型磬(ちょうがたけい)とともに出土した鰐口(わにぐち)に彫られた銘文(めいぶん)には長保(ちょうほう)三年(一〇〇一)の年紀とともに「判官代高向朝臣弘信(ほうがんだいたかむこあそんひろのぶ)」の名がみえる。判官代は在庁官人の職名の一つで、平安時代の中ごろに信濃で在庁官人制が成立していたことを示すものと考えられている。