広がる観音信仰と善光寺・戸隠の信仰のはじまり

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長野県には平安時代にさかのぼる仏像が多く、とくに北信濃には平安時代の観音像が残る。飛鳥・奈良時代に国家的性格をもつ信仰として始まった観音信仰は、平安時代になると貴族層にも受容され、観音信仰を基盤にした霊場が形成された。清水寺(せいすいじ)(松代町西条)、観音寺(信更)、正覚院(しょうかくいん)(安茂里)、切勝(さっしょう)寺(川中島町)、地蔵院(若穂)のほか、観龍(かんりゅう)寺(千曲市)、智識寺(千曲市)などには、平安時代の観音像が残る。また、更級地方の有力者であった「白介ノ翁(しらすけのおきな)」による十一面観音像造立の縁起をもつ長谷寺(はせでら)(篠ノ井塩崎)には、平安時代の十一面観音菩薩像がまつられている。こうしたことから、善光寺平でも平安時代に観音霊場が形成されたことがわかる。


図14 北信濃の古代観音像・経塚および古代社寺分布図
(市立博物館『古代・中世人の祈り』より作成)

 一〇世紀後半以降、末法(まっぽう)思想が広まるにつれ、観音信仰の地に重なるように経塚(きょうづか)がつくられるようになる。経塚は、末法の世になっても釈迦(しゃか)の教えが正確に後世に伝えられるように、経典を経筒に入れて土中に埋めたものである。観音霊場も経塚も多くは標高五〇〇メートル付近の山地にある。奈良時代に山林修行の地であった場が、平安時代になると観音霊場からさらに経塚へと展開していったことがうかがえる。平安時代の信仰が、山への信仰を基盤にしており、北信濃における観音信仰や末法思想の広がりのなかから善光寺や戸隠の信仰が生まれた。

 「善光寺」の名の初見が、一〇世紀半ばに編さんされた『僧妙達蘇生注記(そうみょうたつそせいちゅうき)』であることはさきにふれた。ここに登場する東国の寺院がいずれも有力寺院であることから、善光寺も地方の有力寺院と認識されていたことは確かだが、中央ではまだ無名で、のちの阿弥陀信仰のようすもうかがうことができない。善光寺が中央の貴族社会や仏教界でその名が知られるようになるのは、天台宗寺門(じもん)派の本山である園城寺(おんじょうじ)(三井寺(みいでら))の末寺となり、あるいは園城寺と密接な関係にあった石清水(いわしみず)八幡宮の支配下に入った一一世紀後半から一二世紀前半のころで、大江匡房(おおえのまさふさ)らの影響のもとに最初の善光寺縁起がつくられたのもこのころであった。一二世紀中ごろには、都から善光寺へ参詣する人びとが史料にみえ、平安時代で知られる人に、摂関家出身の僧覚忠(かくちゅう)や、東大寺復興の勧進職(かんじんしき)をつとめた僧重源(ちょうげん)などがいる。

 善光寺が中央の史料に登場するのと前後して、戸隠信仰のようすがわかるようになる。北信濃では戸隠山・飯縄(いいずな)山、黒姫山、斑尾(まだらお)山に越後の妙高山を加えたいわゆる「北信五岳」が古くから善光寺平の人びとによって信仰された山々であった。このほかに、小菅(こすげ)山、高社(こうしゃ)山、霊仙寺(れいせんじ)山、虫倉(むしくら)山、冠着(かむりき)山、四阿(あずまや)山、妙徳(みょうとく)山、皆神(みなかみ)山、奇妙(きみょう)山などの山岳信仰が後世の資料や伝承によって知られる。

 戸隠の名がはじめて史料にみえるのは、一一世紀初めの能因(のういん)法師の『能因歌枕(うたまくら)』で、信濃の歌枕の一つとして「とがくし」があげられている。また、永保(えいほう)年中(一〇八一~八四)に戸隠に住む長明(ちょうめい)が法華経(ほけきょう)に帰依(きえ)し、火定(かじょう)(焼身)にはいったという伝承も伝えられる。戸隠における法華経信仰や弥勒(みろく)信仰がうかがえる伝承である。その後、平安時代末期の後白河法皇撰(せん)『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、伊豆の走湯山(そうとうさん)、駿河の富士山、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)などとともに、戸隠は「四方の霊験所」の一つに数えられており、全国的にもその名を知られるにいたったことがわかる。当時は戸隠山顕光寺(けんこうじ)とよばれ、天台宗山門派の延暦寺(えんりゃくじ)末寺であった。奈良時代の牙笏(げしゃく)や平安時代の法華経残闕(ざんけつ)などが伝わり、また昭和三十八年(一九六三)からおこなわれた戸隠総合学術調査で、奥社参道に沿って伽藍(がらん)の跡が見つかり、また行場(ぎょうば)としての岩窟(がんくつ)から平安時代の銅製の花瓶(けびょう)や六器(ろっき)が見つかり、さかんであったさまをうかがうことができる。


写真54 戸隠山