治承(じしょう)四年(一一八〇)四月ごろから平氏打倒の動きが活発になる。木曾義仲の挙兵がいつ、どこであったかは不明である。義仲が京都法住寺(ほうじゅうじ)合戦を前に歴戦を述懐し「信乃(しなの)の小見(おみ)・会田(あいだ)の合戦を初めとし」(延慶本(えんぎょうぼん)『平家物語』)と述べ、麻績御厨・会田御厨で戦闘のあったことがわかっている。義仲は父義賢(よしかた)が武蔵国大蔵合戦で戦死し、木曾の中原兼遠(かねとお)に預けられ成人した(『吾妻鏡(あずまかがみ)』)ことから、木曽で挙兵し信濃国衙(松本)をへて会田・麻績御厨で合戦して善光寺平に入ったとする通説ができた。いっぽう、『平家物語』には、養父中原兼遠は平氏をおそれ、根々井(ねねい)・滋野(しげの)氏らに預けて養育したため、かれらが木曾御曹司(おんぞうし)を名乗らせて信濃・上野(こうずけ)・足利(あしかが)の兵を募ったとある(延慶本『平家物語』)。このため、義仲は西上州と佐久・小県郡を基盤に、東信で挙兵して、麻績・会田で平氏方を攻めたとする一志茂樹(いっししげき)説が提起されている。
『吾妻鏡』では治承四年九月七日、義仲が頼朝に合流しようとしたため、平氏の笠原頼直(よりなお)が義仲軍を攻撃しようとしたところ、義仲方の村山義直(よしなお)と栗田寺別当範覚(べっとうはんがく)が笠原軍と合戦した。劣勢になった義直が義仲に援軍を求め、その大軍に恐れをなした笠原軍は越後に敗退したとある。義仲に味方した村山氏は、水内・高井郡村山郷を本貫地(ほんがんち)とする井上源氏であり、村山郷は善光寺参道の渡しでもあり、善光寺領にもなっていた。栗田寺別当範覚は、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』に村上源氏基国の弟で戸隠別当栗田禅師寛覚(ぜんじかんがく)とある。三井寺(みいでら)(園城寺(おんじょうじ))を本所(ほんじょ)とする善光寺や戸隠神社の衆徒らが、源氏方として義仲軍に味方したのである。この市原の戦いは、地名から市村(芹田北市・南市)に比定されるが、平正弘の旧領であるから、緒戦は平氏の笠原軍が優勢であったことがわかる。
この勝利のあと、義仲は同年十月亡父義賢の由緒で上野国に入り、平氏方の藤原姓足利俊綱を倒し、上野多胡(たご)荘に拠(よ)って「自立の志」をもち、十二月二十四日信濃に引きかえした(『吾妻鏡』)。上野と佐久・小県郡の東信地方の武士が義仲の軍事基盤であったことがわかる。
平清盛は治承四年末、陸奥(むつ)藤原氏と越後平氏の城資永(じょうすけなが)による頼朝・義仲追討の準備にかかった。翌五年三月城資永が死去したため、弟資職(すけもと)が越後守(えちごのかみ)になり、四月十日には越後平氏を頼った笠原頼直が勘解由判官(かげゆほうがん)に任命された(『吉記(きっき)』)。城氏の軍勢は越後・会津から三万騎を集めて、千曲川口と越後国府からの熊坂(くまさか)越えとで信濃に入り、横田河原に陣を敷いた。横田河原合戦の時期は、『平家物語』が治承五年六月二十五日、『玉葉(ぎょくよう)』が同年六月十三、十四日、『吾妻鏡』が寿永(じゅえい)元年(一一八二)十月九日とするが、『玉葉』説が信憑(しんぴょう)性があるとされる。越後平氏の進軍を聞いた義仲は、『平家物語』では依田城(小県郡丸子町)、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』では、白鳥河原(東御(とうみ)市)で信濃・上野の軍勢を集めて出陣する。更級八幡宮に戦勝を祈願して横田河原での決戦におよんだ。