河川洪水と富部御厨

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善光寺平の南部は千曲川・犀川の二大河川が合流し、氾濫(はんらん)の常襲地帯であった。古代の仁和(にんな)四年(八八八)の大洪水をはじめ、江戸時代にも河川の大氾濫がくりかえされたため、川中島一帯は開発がおくれ、江戸時代の新田開発によって耕地化したものと考えられてきた。しかし、一九八〇年代の開発と新幹線開設、長野冬季オリンピック開催にともなう発掘調査で、平安期の南宮(なんぐう)遺跡(写真53)や鎌倉・室町時代の築地(つきじ)遺跡・於下(おしも)遺跡などが出土し、洪水災害をうけながら中世の開発が進行していたことが判明するようになった。

 南宮遺跡の調査によると、九世紀前半ころから住居が定着しはじめ、一〇世紀中ごろには自然流路や大溝(おおみぞ)を活用して住居軒数が増加し二〇〇軒をこえた大集落が形成された。一〇世紀後半になると洪水で大溝が埋没し住居跡も五〇軒ほどに激減し、一一世紀後半には三軒ほどになってしまう。集落は河川氾濫によって廃絶したと考えられる。この地域には応和年間(九六一~九六四)に建立された東福寺(とうふくじ)が大洪水で流失したという口碑(こうひ)がある。またこの一帯を灌漑(かんがい)する用水路の大御堂堰(おおみどうせぎ)が現存する。「大御堂堰」という地名も、大寺院の存在からつけられた古い地名と考えられ、東福寺廃絶の伝承も発掘調査によって信憑性(しんぴょうせい)が高まった。一二世紀になっても千曲川の洪水はくりかえされ、下流の摂関家(せっかんけ)領太田荘でも大洪水により苧麻(ちょま)が流損したと『行親(ゆきちか)記』という貴族の日記の裏文書(うらもんじょ)にある。

 この大集落の廃絶後、荒廃した地域の再開発に力を入れるようになったのは、隣接する芳美御厨(はみのみくりや)の本領主、源家輔(みなもとのいえすけ)など地元の開発領主層であった。家輔は伊勢神宮から借金をしながら用水路などの開発をすすめたが、返済できずに伊勢神宮の禰宜常秀(ねぎつねひで)に土地証文を譲り渡し、ここに御厨が生まれた。この一帯を灌漑する用水路は、現在犀口三堰(さいぐちさんせぎ)とよばれ篠ノ井小松原で取水するが、平安時代には犀川の分流の自然流路を再開発したのである。小松原の取水口にはいまも伊勢神明社が建ち、上(うわ)堰・中(なか)堰の灌漑地帯に布施(ふせ)御厨が展開し、下(しも)堰は別名戸部(とべ)堰とよばれ富部(とんべ)御厨が分布している。これら一帯の開発資本を出したのが伊勢神宮であり、推進主体は伊勢平氏であった。隣の麻績(おみ)御厨は保元(ほうげん)の乱まで平正弘(まさひろ)という伊勢平氏の所領であった(『兵範記(へいはんき)』)。富部御厨の武士である「信濃国ノ住人富部三郎家俊(いえとし)」は、「祖父下総(しもうさ)左衛門大夫正弘ハ鳥羽院ノ北面也」と自称し、正弘の子に布施三郎惟俊(これとし)がいた(『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』)。この富部御厨・布施御厨ともに伊勢平氏平正弘の所領で、その子孫の富部氏や布施氏が信濃平氏として発展していたのである。

 現在、戸部堰から宮堰(みやせぎ)が分かれる分水口には常泉寺(じょうせんじ)が建ち、土塁(どるい)跡を残した居館跡(きょかんあと)がある。この宮堰は「神明(しんめい)」の地名の岡神明社を囲みその門前で分水している(写真55)。この神社は鎌倉時代には「信濃国更科郡富部御厨杵淵(きねぶち)郷」の「富部御厨神明社」とよばれ、元応(げんおう)二年(一三二〇)から元亨(げんこう)二年(一三二二)に社僧実秀(さねひで)が大般若経(だいはんにゃきょう)六〇〇巻の写経をおこなっていた。杵淵郷の開発領主杵淵小源太重光(しげみつ)は、戸部堰の開発領主富部三郎家俊の「郎等(ろうとう)」として主従関係を結んでいた(『源平盛衰記』)。この岡神明社こそ、信濃平氏の信仰拠点であった。このように千曲川・犀川の氾濫地帯には御厨と平氏の痕跡(こんせき)が多い。保科(ほしな)川が千曲川に合流する一帯には保科(長田(ながた))御厨が分布する。


写真55 岡神明社(篠ノ井西寺尾)