善光寺平の北部一帯には、国衙(こくが)領と上皇の王家領や摂関家(せっかんけ)領などの大荘園群が分布する。西山(にしやま)の山間地には、成勝寺領(じょうしょうじりょう)広瀬荘、御室御領丸栗(おむろごりょうまるくり)荘、八条院領小曽禰(こぞね)荘があった。山麓(さんろく)地帯には、篠ノ井地区に仁和(にんな)寺領石河(いしかわ)荘と四宮(しのみや)荘、浅川周辺に堀河天皇の中宮篤子(ちゅうぐうあつこ)内親王領若槻(わかつき)荘、柳原小島から豊野町にかけて摂関家領太田荘、水内郡と高井郡にまたがって散在する郷村の集合体としての八条院領東条(ひがしじょう)荘などが分布した。特権貴族や大寺院の荘園になった地域である。
裾花(すそばな)川扇状地には、後庁(ごちょう)郷・漆田(うるしだ)郷・市村郷・高田郷・栗田郷・千田(せんだ)郷などの国衙領が分布していた。三輪・宇木・平林・小井(こい)・桐原・和田郷など古代の条里水田が分布しており、この地域一帯はほんらい国衙領であった。これらの国衙領は漆田川、宮川、計渇(けかち)川、古川、八幡(はちまん)川、鐘鋳(かない)川などいずれも後庁郷のある場所で裾花川から取水する用水路の灌漑(かんがい)地帯である。善光寺周辺は横山といわれる舌状(ぜつじょう)台地が張りだしており、その崖(がけ)の等高線上に鐘鋳川(写真56)が開削され、三輪・宇木・平林・小井・和田郷などが灌漑されている。取水口の後庁郷は、国衙の在庁官人(ざいちょうかんじん)がいた善光寺の「寺辺(じへん)」で「眼代(がんだい)(目代(もくだい))の居所」でもあったから、これらの国衙領を管轄していたのである。
このうち鐘鋳川は湯福(ゆぶく)川と掘切沢、宇木沢などからの鉄砲水による土砂災害で埋没した。オリンピック道路の建設にともなう長野東遺跡群の発掘調査で、善光寺南大門付近は湯福川の土砂災害がきわめて頻繁にくりかえされ、中世の火災痕跡(こんせき)や遺物包含層は地下一二〇から一八〇センチメートルのところに埋もれていることが判明した。
一〇世紀以後に国司(こくし)権力が衰退すると、土砂災害による鐘鋳川の浚渫(しゅんせつ)改修工事は、上皇や女院の経済力に依存をせざるをえなくなる。一一世紀、一二世紀の平正家(まさいえ)や盛基(もりもと)は信濃守(しなののかみ)として国司になるとともに国内にいくつかの所領をもっていた。その子孫の平正弘は、五位クラスの諸大夫(しょだいぶ)の家柄であり、国衙の在庁らとの結びつきを利用して、公領の市村郷と高田郷を自分の所領として相伝していた。保元(ほうげん)の乱で正弘の子弟が崇徳(すとく)上皇方に参陣したため所領を没収され、後白河(ごしらかわ)院領の市村高田荘という荘園にされてしまった。同じ時代に越後平氏の平清賢(きよかた)・繁賢(しげかた)らが白河院の北面や判官代(ほうがんだい)として活躍していた。この繁賢の子繁雅(しげまさ)が東条荘内狩田(かりた)郷領主職(しき)をもち、その子孫が和田郷・長池郷を所領としていた。これら一族の所領群は水内郡・高井両郡にわたって分布し、いずれも八条院領東条荘となっている。この平繁雅一族は上皇や女院との主従関係を利用して、鐘鋳川の改修工事に資本を投じて関係郷村を所領とし、それを八条院に寄進して東条荘として立券(りっけん)したのである。
鐘鋳川から分水して中沢川が開削され、善光寺門前一帯の排水を集める小中沢と平林地籍で合流している。この一帯が今溝(いまみぞ)荘とよばれ、永万(えいまん)年間(一一六五~六六)に京都松尾社の社務職秦相頼(はたすけより)がこの今溝荘を立券した。
裾花川で取水する古川の支流南俣(みなみまた)大堰の千田(せんだ)郷も国衙領で、千田郷庁官が安貞(あんてい)元年(一二二七)に信濃国務の藤原定家(ふじわらのさだいえ)に年貢五貫文と干桑・梨を送っている。千田判官代(ほうがんだい)という御家人が寛元(かんげん)二年(一二四四)にも活躍していた。その一部が将軍家と結んだ九条家領の荘園になり千田小中島荘となった。綱島(青木島)に「小中島」の地名があるからこの付近である。
このように善光寺平の扇状地にある荘園は、いずれも院政期に国衙領が再開発のために中級貴族の所領になり、それが上皇や女院に寄進されたり、松尾社などの権門(けんもん)寺社領の荘園として再編成されたのである。