中世の善光寺は湯福(ゆぶく)川の土砂災害の被害をくりかえしうけ、治承(じしょう)内乱では木曾義仲軍と越後平氏の決戦で焼失した。治承三年(一一七九)頼朝(よりとも)は、勧進上人(かんじんしょうにん)と信濃国目代比企能員(もくだいひきよしかず)に命じて善光寺再建に着手した。平成十年(一九九八)の市誌編さん調査で「文治(ぶんじ)三年 法泉坊」と陽刻された鋳造不動明王坐像が、芋井の鈴木久雄宅から発見された(写真57)。善光寺の再建工事が活発に展開されたこのころの新史料である。国内から人夫や大量の建設物資が善光寺門前に集中し、門前に市(いち)が形成され、門前都市が形成された。善光寺の寺辺(じへん)の整備とならんで、湯福川の付け替え工事や周辺の灌漑(かんがい)体系も整備されたと考えられる。
善光寺周辺の灌漑体系図は図15のようになる。主要幹線の鐘鋳(かない)川は後庁(ごちょう)郷の前で裾花川から取水し、善光寺南大門を経由し、湯福川や堀切沢(ほりきりざわ)、宇木沢の沢水をうけて、桐原居館跡をまわって今井地籍の槻井泉(つきいずみ)神社の滞水池で六ヵ郷用水と合流する。多くの排水口で東条(ひがしじょう)荘域の郷村を灌漑していることがわかる。湯福川・堀切沢・宇木沢などは鐘鋳川をこえて条里水田を斜めに屈曲しながら流れ、松林幹線・三輪幹線となって守田廼(もりたの)神社で合流している。ここには、中沢川・北八幡(はちまん)川も合流しており、善光寺周辺の排水がすべて守田廼神社の周辺に集中している。
このため、守田廼神社東がわには巨大な滞水池がいまも拡大されて存在する。守田廼神社は高田郷の産土神(うぶすながみ)とされ、誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とする。もと善光寺にあった八幡社で、頼朝が建久(けんきゅう)年間(一一九〇~九九)に善光寺参詣にさいして神撰(しんせん)を奉納したと伝承している。北八幡川はこの神社を取り巻くように深く掘削されている。千曲川の東から善光寺に向かう参詣道路の古道が門前を通り、道に沿って井戸があった。この神社は高田郷の水難除去の神であるとともに、排水路の集中点になっており、中世善光寺周辺一帯の堰神(せぎがみ)であったことがわかる。
この集中した排水を再利用して取水しているのが六ヵ郷用水である。現在、西和田、東和田、西尾張部、石渡(いしわた)、南堀、北堀で用水組合をつくっている。鐘鋳川は下流のほうが標高の高い逆川(さかさがわ)で、水量が不足がちでその維持管理はたいへんであり、その流末地帯は水不足であった。六ヵ郷用水は条里地帯のなかでも鐘鋳川の水がかりの不足する一帯を蛇行して灌漑している。条里地割に規制されない用水システムであり、中世になって開削された用水路であることを示している。この六ヵ郷用水の分水口には中世居館跡が位置している。西尾張部堰と長名堰の二本を分岐する地点に東和田居館跡があった(県営野球場)。『とはずがたり』の作者二条(にじょう)が訪ねた高岡の和田石見(いわみ)入道の屋敷跡と推定されている。石渡地籍では堀尻(ほりしり)堰を分岐するところに常岩(じょうがん)寺・石渡居館跡、六ヵ郷用水と鐘鋳川が合流した地点に堀居館跡がある。六ヵ郷用水の灌漑地帯は中世の和田郷・尾張部郷・石渡・堀郷に相当し、室町時代には高梨一門の所領になる。鎌倉時代の和田氏による開削をうけ、国人(こくじん)高梨氏が六ヵ郷用水を完成させたと考えられる。