鎌倉幕府は、頼朝を鎌倉殿と仰ぎ主従関係を結んだ御家人(ごけにん)らの集団がつくりあげた政治権力であった。信濃ははじめ木曾義仲(よしなか)の分国でその家人が多かったため、頼朝は警戒して自分の側近の比企能員(ひきよしかず)や姻族である島津忠久(ただひさ)などを信濃目代(もくだい)や塩田荘・太田荘など大規模荘園の地頭に任命し、伊那春近(はるちか)領などにも北条氏を入れた。
しかし、それでも頼朝は騎射(きしゃ)の道にすぐれた諏訪党の御家人らを重用(ちょうよう)し、二代将軍頼家(よりいえ)時代には、比企氏と関係した信濃御家人が増加し、中野能成(よしなり)は頼家の側近中の側近として活躍した。鎌倉中期の御家人の分布史料「六条八幡宮造営注文」(写真58)をみると、鎌倉を本拠とした「鎌倉中」の御家人が一二三人、ついで武蔵国を本貫(ほんがん)とするものが八四人、相模(さがみ)国が八四人、信濃国が三二人、甲斐(かい)国一二人とつづく。信濃の御家人は全国で三番目に多かった。そのうち善光寺平の水内・高井・更級・埴科四郡では一六人と約半数におよぶ。若槻(わかつき)荘の地頭若槻下総前司(しもうさぜんじ)跡・伊豆前司跡の二人、栗田郷の栗田太郎跡、窪寺(くぼでら)郷の窪寺入道跡、市村郷の市村右衛門跡、河田(かわだ)郷の河田次郎跡、四宮(しのみや)荘の四宮左衛門跡、高井郡では高梨判官代(ほうがんだい)跡、須田郷の須田太郎跡、中野西条(にしじょう)の中野四郎左衛門跡、井上郷の井上太郎跡、埴科郡では村上御厨(みくりや)の村上判官代入道跡・馬助跡、出浦蔵人(でうらくろうど)跡、屋代蔵人跡である。ここでの跡とは、国御家人として登録された武士の名跡(みょうせき)を相続した人をさす。
これら有力御家人にも家格の差別があった。第一は、若槻下総前司跡・伊豆前司跡などで受領名(ずりょうめい)をもった四位・五位クラス。第二は村上判官代入道跡・馬助跡、高梨判官代跡、出浦蔵人跡、屋代蔵人跡などで、女院や上皇の院司(いんじ)クラスの官途(かんと)名をもつもの。いずれも御厨や王家領荘園の地頭であり、御家人でありながら、上皇や女院にも出仕した武士層である。第三は市村右衛門跡、中野四郎左衛門跡、四宮左衛門跡など御家人としてはもっとも一般的な五位クラスの左衛門尉(さえもんのじょう)・右衛門尉の官途をもつクラス。将軍家に出仕して官途を入手したもので、鎌倉との関係が深い御家人である。第四が栗田太郎跡、窪寺入道跡、河田次郎跡、須田太郎跡、井上太郎跡らで、受領名や官途名をもたない御家人である。御家人ではあっても、鎌倉時代には幕府や北条氏からうとんじられた存在で冷遇された。
『吾妻鏡(あずまかがみ)』や古文書(こもんじょ)などによれば、村山郷に村山義直(よしなお)、平林郷に原氏、布施御厨(みくりや)に布施惟俊(これとし)、富部御厨に富部家俊(いえとし)などの御家人がいる。さらに布施御厨中条郷には市河孫十郎親平(ちかひら)、英多(あがた)荘平林や桑井(くわねい)郷には平林頼敏(よりとし)・親継(ちかつぐ)、英多荘松井には藤原正長(まさなが)、保科御厨には保科次郎、保科弥三郎、小田切氏、千田郷には庁官とともに御家人千田判官代入道蓮性(れんしょう)、今溝荘北条には神氏の沙弥(しゃみ)重阿などの御家人がみられる。
他国に本貫地(ほんがんち)をもった御家人で善光寺平に所領をもつものも多かった。太田荘の島津氏、善光寺生身如来(しょうじんにょらい)の地頭を称した下野(しもつけ)の御家人長沼氏、東条荘和田郷や長池郷の和田石見(いわみ)入道、三善信濃入道時蓮、原宗三郎入道らがそれである。さらに後庁郷には諏訪部四郎左衛門、小井(こい)郷には北条家被官の曽我資光(そがすけみつ)、石川荘二柳(ふたつやなぎ)郷に三善康基(みよしやすもと)、広瀬荘落合郷に落合泰宗(やすむね)らが存在した。