得宗政治と善光寺保護政策

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鎌倉幕府のもとでは、執権(しっけん)北条義時(よしとき)・泰時(やすとき)らによって有力御家人が排斥された。建久(けんきゅう)二年(一一九一)に井上頼季(よりすえ)が原因不明で殺された。建仁(けんにん)元年(一二〇一)には越後平氏の城資盛(じょうすけもり)を追討するため、佐々木盛綱(もりつな)を大将にして信濃・越後・佐渡の御家人を動員した。建仁(けんにん)三年には信濃目代で守護でもあった比企能員(ひきよしかず)の乱が仕組まれ、北条時政(ときまさ)に討たれた。連座して中野能成(よしなり)や島津忠久などが所領を没収された。代わって北条重時(しげとき)が信濃守護となった。建保(けんぽう)元年(一二一三)には小県郡の御家人泉親衡(いずみちかひら)の乱が起き、信濃の多くの武士が連座した。善光寺平では市村小次郎近村(芹田北市)、保科次郎(若穂保科)、粟沢太郎父子(千曲市粟佐)らが逮捕された。

 北条泰時は延応(えんおう)元年(一二三九)、善光寺に不断念仏(ふだんねんぶつ)用途として小県郡小泉荘室賀(むろが)郷の田地六町六反を寄進した。念仏衆一二人の用途として六町を配分し、灯明料として六反をあてた。これによって、善光寺の法会(ほうえ)は安定し、念仏衆の発言権は大きくなった。仁治(にんじ)二年(一二四一)八月三十日法橋禅智(ほっきょうぜんち)は、橘末時(たちばなすえとき)に製作させた五鈷鈴(ごこれい)を「内陣中間」に寄進した(山形県妙音寺宝物銘文)。泰時の弟朝時(ともとき)は名越(なごえ)北条氏となり鎌倉に名越善光寺を開き、寛元(かんげん)四年(一二四六)三月には名越光時が信濃善光寺再建につとめ大供養をおこなった。この二ヵ月後、名越光時の乱と宝治(ほうじ)合戦が勃発して、名越氏が没落した。建長(けんちょう)五年(一二五三)には北条重時(しげとき)が善光寺の修造供養を実施している。重時の孫義宗が信濃守護になり、重時の子孫が信濃の実権を掌握した。

 このころから北条時頼(ときより)の権限が大きくなった。弘長(こうちょう)三年(一二六三)に善光寺裏の深田(ふかだ)郷を売得して金堂不断念仏衆と金堂不断経衆(きょうしゅう)の用途として田地一二町を寄進した。金堂の念仏衆一二人と法華経を読む経衆一二人の行事が安定して営まれることになった。善光寺の三六人の僧侶の生活費や灯明料が北条得宗家(とくそうけ)によって調達されたことから、善光寺の経営に北条氏の発言権が巨大になったことはいうまでもない。

 北条時頼・時宗(ときむね)のころ、得宗家の家政機関が幕政を事実上動かすようになった。この得宗政治のもとで、御家人層に没落したり冷遇される御家人が多くなった。信濃御家人らも西国に新天地を求めるものが多くなった。英多荘(あがたのしょう)平林郷の平林頼宗(よりむね)・西仏(さいぶつ)・頼敏(よりとし)・親継(ちかつぐ)らは、豊後(ぶんご)国毛井(けい)荘(大分県大分市)に、保科次郎政高は大和国駒弐檜牧荘(こまにひまきのしょう)(奈良県榛原(はいばら)町)に、後庁郷の諏訪部助長(すけなが)は越後国佐味(さみ)荘(新潟県柿崎町・吉川町)や出雲国三刀屋(みとや)郷(島根県三刀屋町)などに本拠を移していった。

 衰退した御家人らには、子弟を禅宗寺院に入れて学僧や祈祷(きとう)僧として活躍させる道を選ぶものも多かった。保科郷の出身である無関普門(むかんふもん)(一二一三~九二)、長池郷の出身である規庵祖円(きあんそえん)(一二六一~一三一三)、窪寺氏の子弟である此山妙在(しざんみょうざい)(一二九六~一三七七)が京都に出て、鎌倉後期から顕著な活動を展開した。

 無関普門は七歳で叔父の寂円(じゃくえん)の弟子になって越後国菅名(すがな)荘の正円(しょうえん)寺(新潟県村松町)に入り、信濃塩田に学んで一八歳で上野(こうずけ)国長楽寺(群馬県尾島町世良田)の栄朝(えいちょう)から顕密(けんみつ)二教を学んだ。京都東福寺の円爾弁円(えんにべんえん)のもとに移り、越後国白河荘華報(けほう)寺(新潟県笹神村出湯)に入った。建長三年(一二五一)には渡海して宋(そう)に入り一二年間修行し、帰国後、東福寺から鎌倉の寿福(じゅふく)寺に入った。越後国正円寺や摂津(せっつ)国光雲寺を歴住したあと、東福寺の住持になり、最後は亀山上皇に請(こ)われて南禅寺の開山になった(写真59)。


写真59 無関普門を開山とする南禅寺の南禅院 (京都府左京区)

 規庵祖円は、長池郷から鎌倉浄妙(じょうみょう)寺に出て、宋僧無学祖元(むがくそげん)に学び、東福寺の無関普門の門弟になった。正応(しょうおう)四年(一二九一)普門の死後、南禅寺二世になって伽藍(がらん)の整備に尽くした。いずれも弱小御家人の出である。

 善光寺の周辺でも大きな変動が起きた。善光寺にははじめ長沼宗政が生身如来地頭とされたが、そのあとは地頭が廃止されて四人の奉行人(ぶぎょうにん)が置かれた。東条(ひがしじょう)荘和田郷の和田石見(いわみ)入道仏阿(ぶつあ)、平林郷の原宮内(くない)左衛門入道西蓮(さいれん)、窪寺(くぼでら)郷の窪寺左衛門入道光阿(こうあ)、後庁(ごちょう)郷の諏訪部(すわべ)四郎左衛門入道定心(じょうしん)の四人が任命された。千曲川を村山の渡しで渡り、中道(なかみち)を通り善光寺の東門に向かう参詣路を監視・管轄するのが、和田郷の和田氏と平林郷の原氏である。犀川の市村の渡しや小市の渡しをこえ、横道から善光寺の南大門に向かう参詣路を監視・管轄したのが、窪寺郷の窪寺氏と後庁郷の諏訪部氏であった。これら四人は地元の御家人であり、その合議制によって善光寺の悪党鎮圧や近辺警護にあたっていた。

 ところが、文永(ぶんえい)二年(一二六五)十一月二十日、幕府は評定を開き、善光寺奉行人四人を解任し、奉行人そのものを廃止した。その命令は信濃守護の北条義宗(よしむね)に伝えられ執行された。この廃止の理由は「員外の雑務を相交(あいまじ)え、不調の沙汰(さた)を致す」という訴えが善光寺からなされたことが原因と『吾妻鏡(あずまかがみ)』は伝えている。しかし、真相は、北条得宗家による地元御家人層の窪寺・諏訪部・原・和田氏への勢力削減策にほかならない。

 文永五年(一二六八)に焼失した善光寺本堂が再建され、文永八年落慶法要(らっけいほうよう)が鶴岡八幡宮別当隆弁(りゅうべん)によって営まれた。この僧隆弁は信濃知行国主四条隆衡(たかひら)の弟であり、嘉禄二年(一二二六)の信濃知行国主四条隆仲(たかなか)もかれの兄である。しかも、隆弁は北条時頼の護持僧であり、宝治(ほうじ)合戦で時頼の戦勝を祈祷(きとう)してその恩賞として鶴岡八幡宮の別当になった人物である。鎌倉の政僧といわれた得宗家の祈祷僧であった。こうして、善光寺と信濃守護は北条得宗家と重時流北条氏によって事実上管理された。重時の子義政は塩田北条氏となって塩田荘に進出した。建治(けんじ)三年(一二七七)五月義政は突然時宗の諫止(かんし)を振りきって出家・遁世(とんせい)して塩田荘に籠居(ろうきょ)するという事件を起こした。しかし、重時の孫義宗は信濃守護のまま出世し、同年六月には幕府評定衆に加えられ、時宗のもとで幕政に関与した。