新善光寺の全国化

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北条得宗家(とくそうけ)による善光寺保護政策のうえで大きな役割を果たしたのが、右記した鶴岡八幡宮別当で園城(おんじょう)寺長吏をも兼任した僧隆弁(りゅうべん)である。かれは信濃に深い関係をもっていた。『隆弁日記』は諏訪信仰についての記述が多く、諏訪円忠(えんちゅう)による『諏訪大明神絵詞(えことば)』作成の根拠資料にもなった(『園大暦(えんたいりゃく)』)。かれのあと、北条一門出身の僧政助(せいじょ)も鶴岡八幡宮別当になるとともに、正安(しょうあん)元年(一二九九)善光寺での曼荼羅供(まんだらく)の大阿闍梨(あじゃり)を勤めた。つづく顕弁(けんべん)は鶴岡八幡宮別当と園城寺別当にもなった。善光寺は園城寺の荘園かつ末寺であったから、北条得宗家は幕府と本所(ほんじょ)園城寺の両面から善光寺との結びつきを強めたのである。

 得宗政権による善光寺・諏訪社の保護政策をみて、有力御家人をはじめ全国各地で新善光寺を建立したり、善光寺仏を模造することがブームになった。まず、得宗家と協調する金沢(かねざわ)氏一門は新善光寺の建立に大きな力を発揮した。元徳(げんとく)二年(一三三〇)京都一条大宮の新善光寺のため、金沢貞顕(さだあき)が寺地を寄進した。金沢氏の所領である陸奥(むつ)国平針(ひらばり)郷の新善光寺、上総(かずさ)国天羽(あもう)郡佐貫(さぬき)郷北方の新善光寺が建立された。安達泰盛(あだちやすもり)と姻戚関係にあった伴野(ともの)・大井氏の所領佐久郡でも御家人大井光長が檀那(だんな)となって落合新善光寺が勧進(かんじん)僧法阿弥陀仏(ほうあみだぶつ)によって建立され、弘安(こうあん)二年(一二七九)に梵鐘(ぼんしょう)が完成した(写真60)。弘安三年五月には秩父(ちちぶ)の緑泥片岩(りょくでいへんがん)で板碑(いたび)がつくられた(時宗寺蔵)。ちょうどこの弘安二年から三年にかけて一遍(いっぺん)は佐久を訪問滞在している。伴野荘市庭(いちば)を訪れ、小田切の大井太郎の屋敷で踊(おどり)念仏をはじめた。この大井太郎こそ、落合新善光寺の檀那大井光長であったから、一遍は法阿弥陀仏の新善光寺の梵鐘完成にあわせて佐久の地にきたのである。弘安三年春に善光寺から陸奥(むつ)に向けて出発した。この善光寺はこれまで信州善光寺と考えられてきたが、佐久落合新善光寺とするのが整合的である。


写真60 法阿弥陀仏が落合新善光寺に造営した梵鐘
(小海町松原 諏訪神社蔵)

 御家人を檀那とした新善光寺の建立は関東でもブームになっていた。宇都宮一門の小田氏所領常陸(ひたち)国北郡大田郷にある新善光寺(茨城県八郷町)に文永(ぶんえい)十二年(一二七五)、小田時知(ときとも)が大日如来(だいにちにょらい)坐像を寄進したことが確認できる。下野(しもつけ)国御家人小山(おやま)氏も小山荘内に新善光寺を建立し、永仁(えいにん)五年(一二九七)他阿真教(たあしんきょう)が参詣したことが『遊行(ゆぎょう)上人絵伝』にみえる。鎌倉後期には全国各地に新善光寺が勧請(かんじょう)され、善光寺信仰は全国化していった。