全国から善光寺への参詣人が増加するにともなって南からの参詣路や東からの参詣路が発達した(写真61)。元仁(げんにん)二年(一二二五)御家人塩谷朝業(しおやともなり)は出家して信生(しんしょう)法師となり関東から鎌倉街道を北上し旧知の伊賀光宗(みつむね)を流罪先の麻績御厨(おみのみくりや)に訪ねたあと善光寺に参詣している。鎌倉街道とよばれた参詣路は倉賀野(くらがの)・板鼻・松井田・碓氷(うすい)峠から桜井・望月・布引・海野・白鳥・岩下・落合・塩尻・赤池・坂木(さかき)・柏崎・千曲川・篠井・犀川(さいがわ)をへて善光寺に入った。犀川は市村の渡しか小市(こいち)の渡しをこえた。川合郷・真島郷はこの市村の渡しであり、文治年間以来善光寺領となっていた。小市は戸隠顕光寺(けんこうじ)の所領でその参詣路でもあった。窪寺(くぼでら)・後庁(ごちょう)郷をへて南大門に達した。
北陸道を経由した参詣路は、越後国府から関山(せきやま)(妙高村)をこえて常盤(ときわ)(常岩)・大蔵崎柏尾(かしお)から木島・浅野・井上をへて「山を東に見なして西に向かえば善光寺」と井上から千曲川をこえた。この地点は、関東から上野(こうずけ)国大笹(おおざさ)をへて保科・井上に出る大笹街道との合流点でもあったから、保科宿(しゅく)や井上宿が発達した。保科宿には遊女(あそびめ)を抱える長者(ちょうじゃ)がおり、文治(ぶんじ)三年(一一八七)に鎌倉で頼朝に宴曲を披露している。中世では裾花川がいまの八幡川で東流していたから、舟で遡上(そじょう)する川の道があった。千曲川東からの参詣道には土屋坊(どやぼう)(朝陽南屋島)を通り長池・高田・七瀬をへて善光寺に向かうコースもあった。高田郷の鎮守守田廼(もりたの)神社前の古道には参詣人のための共同井戸がいまも残っている。
また、井上から布野(ふの)の渡しか村山の渡しをこえて石渡戸・和田・平林・三輪・善光寺に出る参詣路は「中道(なかみち)」と通称され、この布野郷・村山郷も文治二年には善光寺領になった。この道は西方に向かって沈む夕日をみて極楽往生を思い描きながら参詣することができ、日観想(にっかんそう)の場として四天王(してんのう)寺とともに善光寺信仰を広める一因となった。当時の善光寺は東向きか南向きか議論があるが、撞木(しゅもく)造りは南向きのまま東からも参詣できる構造であったといえよう。
こうした交通路の要衝(ようしょう)では津(つ)(渡し)料や橋料・関(せき)料・山手(やまて)・川手などの新しい課税方式が導入され、得宗被官(とくそうひかん)や得宗政権と結んだ律宗(りっしゅう)寺院の極楽寺や西大寺流の律僧らに知行地として安堵(あんど)された。得宗被官とよばれた御内人(みうちびと)らが善光寺平周辺の郷の給主や給人になるのもこの時期であった。「中道」を押さえる平林郷は原宗三郎入道の所領で、原氏は相模(さがみ)出身の御家人であったが、得宗被官工藤氏の一門原氏として存続し、平林郷も最明寺時頼菩提所(さいみょうじときよりぼだいしょ)になっていた。小井(こい)郷(吉田中越付近)でもこのころ所領が細分化され、片穂惟秀(これひで)の後家の知行地や平入道跡・曽我左衛門尉(じょう)太郎光頼・諏訪木工(もく)左衛門尉入道の知行地になった。この片穂・平・曽我・諏訪氏はいずれも得宗被官になっていた。善光寺には、曽我兄弟の墓と伝承する宝篋印塔(ほうきょういんとう)が存在し、岩石町・富竹(朝陽)・井上(須坂市)などに曽我氏女房虎御前(とらごぜん)の伝承が残っている。
こうした時頼伝承は、全国的に、北条得宗領周辺に残っていることが明らかになっている。小市の渡しのあった小田切にはいまも西明寺(さいみょうじ)という寺が残っているし、その対岸には戦国時代に「河中島小松原郷内西明寺」があった。市村の渡しの真島郷にも「最明寺屋敷」の地名と最明寺入道が開基とする伝承が残っている。このように関料や津料を徴収できる経済的場所に最明寺伝承が残っている。これも得宗権力と結ぶ寺院や琵琶法師(びわほうし)・修験者(しゅげんじゃ)・回国聖(かいこくひじり)らの活動を示す歴史遺産である。正応(しょうおう)三年(一二九〇)二月後嵯峨(ごさが)院の女房であった二条(にじょう)は武蔵川口から川越入道後家尼(ごけあま)とともに善光寺を訪問し、東条荘和田郷地頭和田石見(いわみ)入道の館(やかた)に長期滞在している。この和田氏一門は御家人であるとともに持明院(じみょういん)統の歴代の女院である北白河院・安嘉門院(あんかもんいん)・昭慶門院(しょうけいもんいん)などの後見・乳父であり、院北面の武士ともなり、幕府と朝廷に両属関係をもって大きな勢力を維持していた。