中世の善光寺は、いまの仲見世(なかみせ)・宿坊(しゅくぼう)の地割のなかにすっぽりと収まっていた。正安(しょうあん)元年(一二九九)に作成された「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」や徳治(とくじ)二年(一三〇七)までに制作された「遊行(ゆぎょう)上人絵伝」は文永年間に再建された善光寺や門前のにぎわいを描いている。裾花川の大橋を渡ると木戸と柵(さく)で区分された門前に入る。後庁(ごちょう)という目代(もくだい)の居所で在庁官人らがいた。両がわに町屋が描かれている。鐘鋳(かない)川の小橋を渡ると南大門になる。応永七年(一四〇〇)に「善光寺の南大門および裾花川の高畠(たかはた)に履子(りし)を打つ所なし」といわれ、裾花川が今の八幡(はちまん)川であり現在の新田町付近の地名「高畑」が中世以来のものとわかる。南大門から寺域に入るが、両がわは開放的で町屋が建つ。今の東町・西町にあたる。平成八、九年に長野冬季オリンピックにともなう道路付け替え工事での発掘調査が字大門地籍でおこなわれた。大量の中世石塔や宋銭(そうせん)・明銭(みんせん)二〇〇枚や火葬骨とともに地下倉が想定される建物跡や礎石(そせき)が出土した。「応安二年(一三六九)」「永徳三年(一三八三)」などの銘文をもった礎石が多く出た。南大門を入った善光寺の境内でも、中世では葬送の地と町屋という商業地域とが混在していたことが判明した。
「一遍聖絵」には五重塔が存在し、西門付近に絵解(えと)き法師がおり、北方に寺庵(じあん)がある(写真62)。『平家物語』は信濃前司が琵琶(びわ)法師に語らせたものといわれ、善光寺には琵琶法師や絵解き法師・大道芸人・病人など社会的弱者が多く集まっていた(写真63・64)。文保(ぶんぽう)元年(一三一七)から元徳(げんとく)四年(一三三二)にかけて「仏師善光寺住侶妙海(じゅうりょみょうかい)」が県内に九体の仏像を残している。善光寺門前には仏師や絵師など職人集団が定住し、注文生産に応じていた。貞治(じょうじ)四年(一三六五)には「善光寺西門」に正一坊なる尼がいた史料がある。戸隠中院の義養坊(ぎようぼう)と夫婦であった。応永七年には「桜小路に玉菊・花寿という遊女(あそびめ)」がいた。門前の住人は、大工・仏師・絵師・遊女・琵琶法師・絵解き法師など善光寺如来に直接結縁(けちえん)し世俗を脱したものという特別な意識をもっていた。農村とは異なった都市の世界が善光寺門前に展開していた。