鎌倉末期に全国に所領を展開していた御家人(ごけにん)らは、惣領(そうりょう)から庶家(しょけ)が独立して中小御家人として自立し本領の地を離れ、地元の所領との結合を強めるなど、階層分化がはげしくなった。善光寺平でも、国目代(くにもくだい)の居所で在庁(ざいちょう)や国侍(くにざむらい)らが国務をとり、府中(ふちゅう)とならんで信濃における行政の中心地のひとつであった後庁(ごちょう)周辺でも変化がみられるようになった。嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)後庁郷(後町)の地頭(じとう)になっていた御家人諏訪部氏は、越後国佐味(さみ)荘上条郷赤沢村(新潟県柿崎町、写真65)や出雲(いずも)国三刀屋(みとや)郷(島根県三刀屋町)にも所領をもち惣領の諏訪部四郎左衛門尉(じょう)が一族をまとめて諏訪社頭役(とうやく)など御家人役をつとめていた。
しかし、越後と出雲の所領を相伝した庶子諏訪部氏は、越後国御家人としては登録されておらず、出雲国御家人「諏訪部三郎入道」として惣領から独立する動きを強めていた。惣領地頭助清(すけきよ)の知行分も出雲に存在していたが、助清は義助・義秀の二人の子どもを残して若くして死去した。その直前、惣領職(しき)を出雲諏訪部氏の弟助光に譲り、出雲の所領と幼児の養育・後見を母方の祖父頼秀に依頼した。しかし、新惣領となった助光は幼児らの所領を当知行(とうちぎょう)していつまでも返却しなかった。老い先短くなった祖父は幕府に提訴して一族間で訴訟争いとなった。幕府は永仁(えいにん)四年(一二九六)助光の当知行を安堵(あんど)し、幼児の扶持と伊賀屋(いがや)山だけを祖父に認める判決を出した。有利な判決をえた新惣領助光は、旧惣領分の出雲・越後らの所領をも確保し、活動の本拠を信濃から出雲に移していった。こうして後庁郷の諏訪部氏は南北朝時代以降、信濃では姿をみせなくなり、出雲国御家人として活発に活動する。
こうした動きは多胡(たこ)郷・押田郷・本郷を所領とした若槻下総前司(わかつきしもうさぜんじ)跡・同伊豆前司跡の一門にもみられ、京都を舞台に女院蔵人(にょいんくろうど)として活躍した京都若槻氏と信濃若槻氏との関係が切れていった。現地に残り所領を縮小した信濃若槻氏の若槻左衛門蔵人氏朝(うじとも)は、明徳(めいとく)三年(一三九二)には高梨朝高(ともたか)と一族関係を結び、譜代本領として若槻本郷のみを知行するのがやっとという状況になっていた。
こうした御家人や武士層の変動が北条得宗家(とくそうけ)の滅亡、建武新政、南北朝内乱の社会的背景であった。信濃は得宗領が多く、諏訪氏は得宗被官の御内人(みうちびと)として最大の実力者であったから、諏訪祝(ほうり)や小笠原彦五郎貞宗(さだむね)らは北条政権がわに属し鎌倉幕府方に参陣した。得宗被官の所領が多かった北信濃の武士らは、後醍醐(ごだいご)天皇や足利尊氏(たかうじ)方に参陣するものは少なかった。善光寺平で倒幕軍に参加したのは、元弘(げんこう)三年(一三三三)五月七日尊氏が六波羅(ろくはら)を攻撃したとき、中野郷の一分(いちぶ)地頭中野家平(いえひら)が参加したにすぎない。新田義貞軍の鎌倉攻めでは、市村王石丸の代官後藤信明が五月十一日の入間(いるま)河原の戦いに合流し、十五日首一つをとり、十八日の鎌倉攻めでは前浜で負傷して軍功をあげた(写真66)。この市村氏は市村荘(芹田南市・北市)の御家人市村右衛門跡の子孫である。一族の惣領は倒幕に参加しておらず善光寺平の武士は多くが日和見(ひよりみ)であった。