北信濃の反乱から中先代の全国反乱へ

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後醍醐(ごだいご)天皇が政権を掌握し旧北条方の武士を朝敵人として所領を没収する政策を実施すると、旧北条氏与党の武士が多かった北信濃では、領地を没収されるものが多くなった。

 市村王石丸の惣領家と想定される市村八郎左衛門入道の所領は旧北条方として足利尊氏(たかうじ)によって没収され、建武二年(一三三五)十一月十日足利一門の畠山貞康(さだやす)に宛行(あてが)われた。市村・保科・四宮(しのみや)氏など日和見を決めこんでいた北信濃の有力武士層が所領没収になると、北信濃では反尊氏・反後醍醐の行動に立ちあがるものが多くなった。建武二年三月には常岩(ときいわ)北条で常岩宗家が蜂起(ほうき)、同年七月には諏訪大祝(おおほうり)が北条時行(ときゆき)を擁して挙兵し、北信濃に進軍した。この戦いにいち早く参加したのが、保科御厨(みくりや)(若穂綿内)の保科弥三郎と四宮(しのみや)荘(篠ノ井)の四宮左衛門太郎であった。かれらは、足利方に属して守護となった小笠原貞宗(さだむね)が陣を張る埴科郡船山郷青沼(千曲市)の守護所を七月十四日攻撃した。反乱軍と守護軍とは更級郡内の八幡(やわた)・篠井(しののい)・四宮河原で戦い、十五日には八幡・埴科郡福井・村上河原で勝利し、鎌倉街道を南下して武蔵府中を撃破して鎌倉を占領した。こうして北信濃の旧北条氏与党の反乱は全国反乱と結びついて国政を左右するほどになった。

 黙視しえなくなった尊氏と弟直義(ただよし)の軍は、京都から鎌倉に進軍する。十四日駿河国府(するがのこくふ)合戦で塩田陸奥八郎と侍大将諏方(すわ)次郎が生け捕りにされ、十九日辻堂片瀬原合戦では諏方上宮祝三河権守(ほうりみかわごんのかみ)頼重が尊氏軍に降伏した(国立国会図書館文書)。尊氏軍は八月十九日ようやく鎌倉を奪回し中先代(なかせんだい)の乱を鎮圧した。しかし、北信濃での反乱は治まらず、同年九月坂木北条で薩摩刑部(さつまぎょうぶ)左衛門入道が蜂起(ほうき)し、建武三年正月十三日から十七日には埴科郡英多(あがた)荘清滝寺を山城として山岳に挙兵し、香坂(こうさか)小太郎入道心覚や深志介知光(ふかしのすけともみつ)らが更級郡八幡や麻績御厨(おみのみくりや)十日市場などで戦闘をくりひろげた。更級郡布施御厨中条郷に一分(いちぶ)地頭として所領を獲得した甲斐国御家人市河氏一門の親宗(ちかむね)が守護小笠原貞宗軍に参じたことが知られるにすぎない。こうした北信濃の動向は全国各地に波及しており、日向(ひゅうが)・越後・紀伊・長門(ながと)・伊予(いよ)などでも反乱が激化し、南北朝内乱という全国反乱にまで発展した。

 内乱の進行に危機感をもった足利尊氏は後醍醐に反旗をひるがえし九州に退去しつつ、これまでの政策を転換して「元弘(げんこう)没収地返付令」を発した。旧北条氏与党に所領を安堵(あんど)することにしたため、反乱軍のなかから尊氏軍に帰属する武士も増加しはじめた。しかし、善光寺平では反乱軍の抵抗は大きかった。高梨経頼(たかなしつねより)・須田(すだ)・井上氏らが太田荘大蔵郷へ進出し、長沼太郎らと結んで金沢称名寺(かねざわしょうみょうじ)や領家年貢を横領するなど、国人の在地勢力が拡大した。幕府は、暦応(りゃくおう)二年(一三三九)から信濃国を鎌倉府の管轄に移し、関東の軍勢を信濃に動員して鎮圧する体制をととのえた。この体制は康永(こうえい)三年(一三四四)までつづきようやく安定をみた。

 しかし、観応(かんのう)二年(一三五一)正月観応の擾乱(じょうらん)が勃発すると、北信濃は多くが反尊氏派になった。直義派の諏訪直頼軍が船山守護館を焼き打ちすると、守護小笠原政長も尊氏派から直義派に転身したが、七月にはまた尊氏派に返り咲くなど、政治動向に応じて敵味方が絶えず変動した。この間、四月には信濃をふたたび鎌倉府の直務下に置かざるをえなかった。八月には北信濃で実力をもちはじめた高梨経頼や須田氏が尊氏派の守護小笠原軍に参陣すると、善光寺平もしだいに尊氏派が増えた。