貞治(じょうじ)四年(一三六五)にふたたび鎌倉府の管轄下に入れられた信濃では、関東管領(かんれい)上杉朝房(ともふさ)が信濃守護に就任した。応安(おうあん)二年(一三六九)上杉朝房は小山(おやま)・千葉・佐竹ら関東軍を動員して信濃に進軍し、伊那谷大河原の宗良(むねよし)親王軍を攻撃し、同年九月に下野小山(しもつけおやま)氏一族の藤井下野(しもつけ)入道全切(ぜんせつ)や代官上遠野(かどの)政行らを高井郡春山城(若穂綿内)に派遣した。しかし、善光寺平の反尊氏派ははげしく抵抗し、尊氏派の関東管領軍は翌年正月十日から二月二十六日まで春山城に籠城(ろうじょう)せざるをえないありさまであった。ようやく上杉朝宗(ともむね)軍が援軍にかけつけ、更級郡氷鉋(ひがの)(更北)、水内郡平柴(ひらしば)(安茂里)に陣を張り、八月三十一日に守護上杉朝房を善光寺に迎えた。関東管領で信濃守護となった上杉朝房軍に敵対したのが、更級・埴科・高井郡の国人(こくじん)村上氏・高梨氏や栗田氏らであった。善光寺平の反守護・反関東管領軍は栗田城(芹田栗田)を根拠地に抵抗をくりひろげた。
両軍の決戦は応安三年(一三七〇)十月四日栗田城でおこなわれた。守護軍は栗田城を攻め、五日には西木戸口の戦闘で激戦となった。藤井下野入道の若党(わかとう)大窪次郎四郎や中間(ちゅうげん)彦八郎が戦傷を負う軍功をあげた(写真67)。守護上杉朝房は関東や越後の軍勢を動員して、村上・栗田氏ら善光寺平の国人らをようやく平定した。この激戦の跡となった栗田城跡は、いまなお巨大な土塁(どるい)の一部が日吉神社の境内に残っており、発掘調査でも室町期の遺物が多数出土した(図16)。栗田城跡は長野盆地の国人らが尊氏派の関東管領軍に最後まで抵抗して敗北した記念碑である(写真68)。