青沼守護所から平芝守護所への移転

189 ~ 190

このころ信濃守護所は村上氏領内青沼一帯(千曲市)にあった。この青沼守護所の位置は、関東管領(かんれい)で越後守護を兼ねる上杉氏が、越後国境(くにざかい)から信濃に入部(にゅうぶ)しようとする場合にきわめて不都合であり、越後国境に近い場所に移転する必要性が高まっていた。康暦(こうりゃく)元年(一三七九)京都での政変で幕府の管領は細川頼之(よりゆき)にかわって斯波義将(しばよしまさ)が就任し信濃守護に一門の義種(よしたね)を補任(ぶにん)した。斯波氏は越前・加賀・能登など北陸の守護職を兼任していたから、上杉朝房の場合と同じく北回りで信濃に入部しなければならなかった。まず守護代二宮氏泰(にのみやうじやす)を派遣し、北陸経由で信濃の鎮圧と統治に乗りだした。このため、守護所は更級郡青沼から越後に近い善光寺に隣接した平芝(ひらしば)(安茂里平柴)の地に移転させた。至徳(しとく)三年(一三八六)には高井郡小菅(こすげ)社の別当が守護方に反旗をあげ、翌年四月には村上頼国(よりくに)・高梨朝高(ともたか)・島津長沼太郎らが善光寺に挙兵、閏(うるう)五月に平芝の守護所を攻撃した。このとき、守護代の二宮種氏らは漆田(うるしだ)(中御所)で反乱軍と戦闘をくりひろげ防戦につとめた。守護代の代官が平芝・漆田を拠点にしていた。

 善光寺平の国人一揆(こくじんいっき)が守護斯波義種への抵抗を激化させると、幕府は至徳四年、管領の斯波義将を信濃守護に任じ、守護代二宮氏泰の軍勢を越後糸魚川(いといがわ)から信濃に入国させ、国人の鎮圧に乗りだした。関東管領上杉朝房につづいて幕府管領斯波義将までが信濃守護を兼任して外国軍勢を動員した軍事行動によって、北信濃の国人や一揆を鎮圧した。平芝守護所はいまや幕府の権力を代表する軍勢催促の場となった。当時、裾花川が現在の八幡川の流路に沿って東流していたので、平芝と漆田(うるしだ)郷・後庁(ごちょう)郷・善光寺は隣接した地続きの場所であった。高台の平芝には守護の城郭が置かれ、ふもとの漆田郷には守護の屋敷・居館がならび、後庁郷は鎌倉時代以来目代(もくだい)の居所で、在庁らが国務をとる場であり、善光寺と門前は三国一の霊場といわれる宗教権力と経済権益の場でもあった。こうして平芝・漆田の守護所を押さえることは、後庁と善光寺門前をも統一支配することを意味し、軍事的・政治的・経済的・宗教的権力を一手に独占できることになった。ここを拠点にして幕府・鎌倉府はようやく北信濃の村上・高梨・栗田・小菅社などの国人層を将軍家に服属させることができた。平芝守護所は越後など北陸経由の守護軍勢の結集場になり、善光寺横山(よこやま)とともに軍勢催促の場となった。応永六年(一三九九)まで信濃守護斯波氏のもとで戦闘はみられなくなった。長野盆地や北信濃の国人や一揆は斯波氏を信濃守護として認めるようになっていた。