将軍義満・守護長秀による守護所・後庁・善光寺門前の独占支配

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将軍足利義満(よしみつ)が成長すると、管領(かんれい)で信濃守護の斯波義将(しばよしまさ)との対立が表面化した。応永五年(一三九八)に守護領の住吉(すみよし)荘と春近(はるちか)領を小笠原長秀(ながひで)に返付し、つづいて管領職(しき)は畠山基国(もとくに)に改替(かいたい)し斯波氏が失脚した。小笠原長秀は長基(ながもと)から惣領職(そうりょうしき)を譲られ、明徳(めいとく)三年(一三九二)将軍義満の相国寺落慶供養(しょうこくじらっけいくよう)に弟政康(まさやす)とともに随兵役(ずいへいやく)をつとめ、ついに応永六年に信濃守護職に就任した。小笠原氏を故(古)敵(こてき)としていた北信濃の国人(こくじん)らはその守護職就任に猛烈に反対した。

 このとき、反小笠原軍の中核となった第一勢力は、長沼郷(長沼)の国人島津国忠であった。かれは、守護小笠原長秀にかわって入部した守護代赤沢秀国(ひでくに)・櫛置(くしき)清忠の軍勢を同年十月水内郡石渡(いしわた)に攻め、合戦になった。いまも石渡の居館跡となって痕跡(こんせき)が残っている(写真69)。この石渡合戦の直後、西国六ヵ国守護大内義弘は義満に不満を抱く鎌倉公方氏満(くぼううじみつ)と結んで堺(さかい)で反乱を起こした。伊那郡伊賀良荘(いがらのしょう)在住の守護長秀は、十一月上旬参陣命令をうけて美濃に出兵し、北信濃の中野頼房(よりふさ)らを動員した。しかし、小笠原氏の軍事動員にしたがわないものが多かった。


写真69 石渡舘の堀跡と土塁跡(朝陽石渡)

 義満は大内義弘の反乱を鎮圧すると、守護長秀を信濃に下向させ、国内の統制にあたらせた。将軍義満は応永七年三月東福寺海蔵院に太田荘領家職(りょうけしき)を安堵し、年貢を侵害する島津国忠や荘内大蔵郷・上長沼を当知行する高梨朝高などの横領人(おうりょうにん)を排除するように守護長秀に命令を出した。長秀は守護代にその命令を執行するように伝え、島津氏に乱行停止(らんぎょうちょうじ)を命じた。七月にはみずから京都を発(た)って佐久を経由して善光寺に入部し、「一国成敗」に乗りだした。守護長秀は善光寺入部で、平芝・漆田郷の守護所と後庁郷の国務と善光寺門前の経済権益と善光寺という宗教権力を独占、掌握しようとした。長秀はまず奉行人を定め、押買(おしがい)・乱暴狼藉(ろうぜき)・早馬(はやうま)などを禁止する制札(せいさつ)を善光寺門前に立て、国人の伺候(しこう)を命じた。幕府・守護の権威を笠にきた長秀は、国人との対面にさいして「紐(ひも)を結ばず扇を帯(たい)せず一献(いっこん)の沙汰(さた)」もしないという無礼(ぶれい)で対応した。