この守護長秀にたいして、反小笠原軍となった第二勢力は、禰津(ねつ)・春日・香坂(こうさか)・窪寺(くぼでら)・栗田・小市・小田切・落合氏など犀川流域に分布した中小国人(こくじん)の大文字一揆(だいもんじいっき)であった。かれらは小笠原氏が「故敵当敵(こてきとうてき)」であることを理由に長秀の解任を幕府に申請した。長秀が善光寺に入部すると、窪寺観音寺に集まって合議し、ひとまず将軍家の決定を尊重して長秀に対面することに決した。
反守護軍となった第三勢力は、村上満信(みつのぶ)であった。かれは守護使節が私領に介入する長秀の「強儀」に反対した。
東北信の国人らは連合して国一揆(くにいっき)を結び、応永七年(一四〇〇)九月、守護長秀と「国怱劇(くにそうげき)」とよばれた大塔(おおとう)合戦を展開する(写真71)。九月三日に屋代城から村上満信軍五〇〇騎が篠井岡に出陣。十日長秀軍八〇〇騎は横田に陣を敷いた。その後、高梨朝高(ともたか)軍五〇〇騎は二柳(ふたつやなぎ)(篠ノ井)、井上光頼・島津長国軍は千曲川辺、大文字一揆八〇〇騎は石川(篠ノ井)に出陣し、守護長秀軍は軍事的に不利になり、二十四日塩崎城に籠城(ろうじょう)すべく兵を動かした。村上軍の千田信頼(せんだのぶより)は長秀軍を追撃し、大激戦になった。長秀軍は半死半生で、兵百四、五十とともに塩崎城にたどり着いた。坂西長国(ばんざいながくに)軍は大塔の古要害(写真70)、清忠(きよただ)軍は二柳城にたてこもり緊急の防備を固めた。「霜冬」のなか十月十七日まで籠城したが、食料が尽き兵馬を殺して生肉を食べ飢えをしのぐ惨状を呈した。
籠城軍は最後の一戦を求めて出陣し「侍名字(さむらいみょうじ)三百余人」が自害・討死した。佐久の小笠原一門大井光矩(みつのり)が仲介に入り、村上満信と和議をととのえ塩崎城の包囲を解き、守護長秀は命からがら京都に逃げ帰った。幕府は応永八年二月、長秀の信濃守護職を解任し、元守護の斯波義将(しばよしまさ)を再任した。こうして大塔合戦は国人がわの勝利に終わり、守護による鎖国支配が北信濃では困難になっていった。