幕府代官の支配と関東の争乱

193 ~ 194

新守護斯波義将は嶋田常栄(じょうえい)を守護代として信濃に下向(げこう)させ、中野郷の紛争解決にあたらせた。幕府はさらに翌応永九年(一四〇二)五月に信濃守護を廃止して将軍が直接支配する幕府料国(りょうこく)とし、依田左衛門大夫(よださえもんたいふ)と飯尾左近将監(いのおさこんしょうげん)を信濃に派遣し、東大寺が知行する国衙正税(こくがしょうぜい)や年貢収納の実否調査にあたらせた。幕府の両使は平芝漆田守護所と善光寺門前に入部した。九月には信濃代官に細川滋忠(しげただ)が任命された。細川軍は、更級郡檀原(だんばら)(川中島)、更級郡生仁(なまに)城(千曲市)、塩崎新城、奥郡の桐原(吉田)・若槻(わかつき)・下芋川(しもいもがわ)などに発向して、村上・屋代・赤沢・島津・高梨など国人層の鎮圧にあたった。北信濃の国人が幕府代官細川軍の前に各個撃破されていった。

 こうして小笠原氏が信濃守護から離れ、将軍による信濃支配がおこなわれると、善光寺平の国人や大文字一揆はその支配に服するようになり、将軍家の御家人や奉行人(ぶぎょうにん)・奉公人になるものが増加した。幕府の信濃直轄支配は政治的に安定し、信濃国内ではほとんど反乱や内乱がみられなくなった。将軍による信濃支配は応永三十二年(一四二五)に小笠原政康(まさやす)が守護に就任するまで二三年間におよんだ。信濃と京都とは「応永の平和」といわれるような安定した関係を形成した。