室町期の国人(こくじん)による郷村の開発や経営を物語るものが、高梨氏による六ヵ郷用水の再開発である。六ヵ郷用水は多くの中小河川が合流する三重(さんじゅう)公園の滞水池(たいすいいけ)付近で取水する(写真72)。西和田が堰守(せぎもり)で東和田・西尾張部(にしおわりべ)・石渡(いしわた)・南堀(みなみほり)・北堀の六ヵ村を灌漑(かんがい)する用水組合で、規模は小さいが独立性が強い。
この用水路の開発は、鎌倉時代東条(ひがしじょう)荘の領主和田氏の開削にはじまるものであった。石渡と堀の境界地帯に字「今井」(新しい用水の意)の地名が残り、平成九年の墓石調査で常岩寺(じょうがんじ)の礎石に「康応(こうおう)元年(一三八九)十月十五日諸人敬白(けいびゃく)」の銘文が見つかった。しかも、明徳(めいとく)三年(一三九二)高梨朝高(ともたか)が一門の所領を書き上げて将軍義満に注進した高梨朝高所領目録には、「和田郷・高岡」が高梨朝高、「石渡部・堀・尾張部在・小井(こい)・吉田村」が高梨与一の所領となっており(高梨文書)、六ヵ郷用水一帯は高梨氏一族の所領であった。ここから、六ヵ郷用水の潅漑する郷村が鎌倉期の和田氏から高梨一門に継承され、堀や石渡・今井地籍にまで拡大されたことがわかる。
高梨氏は高井郡を本拠にして北信濃では村上・島津氏らと肩をならべる有力国人であったが、善光寺平にも進出して長沼の島津氏と結び、用水開発をすすめてその一帯を一門の所領とした。そのため、この一帯の灌漑用水路である六ヵ郷用水の独立性が生まれたものと考えられている。