将軍家の直接支配のもとで信濃に二三年間、戦闘が記録されていない「応永の平和」が到来するとすぐ、北信濃と京都との経済的交流が活発になった。市村高田荘は、安曇郡住吉(すみよし)荘とともに京都の公家山科(やましな)家領五ヶ荘とよばれ、ひとりの請負代官(うけおいだいかん)が任命され、一条烏丸(からすま)の僧建徳庵(けんとくあん)を請人(うけにん)として毎年一〇貫文を納入する請負契約が結ばれていた。当時米一石が一貫文といわれ、現代での相場では七万から一〇万円相当と考えられているから、年間七〇万円から一〇〇万円ほどの年貢額に相当する。応永十二年(一四〇五)十二月には五貫文と二貫文が分割納入された。翌年に山科家は家司(けいし)の源清幸を荘奉行(しょうぶぎょう)に補任(ぶにん)し、幕府料国であったから幕府の奉行人飯尾貞之(さだゆき)や斎藤玄輔(げんすけ)と交渉して協力をとりつけた。十一月には中世の為替である割符(わりふ)によって信濃からの年貢が京都に届けられた。応永十四年には、建徳庵から山科教言(のりとき)に公事(くじ)として信濃棗(なつめ)が届けられた。この市村高田荘は市内高田から北市地籍にあたる。北八幡川の灌漑(かんがい)地帯であり、当時の穀倉地帯でもあった。北市の佛導寺には「明徳二年(一三九一)八月十八日来阿弥陀仏(らいあみだぶつ)」の銘文のある石塔がある。
この時期は、寺社の復興期でもあった。応永十二年十一月には、源関(げんせき)神社(松代町豊栄)が関屋市兵衛の本願によって、天下泰平のため郷中氏子六六人と共同で造立(ぞうりゅう)された。応永二十年には応安三年(一三七〇)に焼失していた善光寺金堂が約四〇年ぶりに再建され落慶法要が営まれた。翌二十一年には高井郡今里寶積寺(ほうしゃくじ)(須坂市井上)にも焦仙(しょうせん)が鰐口(わにぐち)を寄進した。「応永の平和」によって、郷や村での寺社の再興がなされていた。