応永七年(一四〇〇)守護小笠原長秀が善光寺に入部したとき、頓阿(とんあ)と力阿弥(りきあみ)という二人の遁世者(とんせいしゃ)をともなっていた。頓阿は面貌(めんぼう)も身分も賤(いや)しいが「洛中(らくちゅう)においては名だたる仁(じん)なり」といわれ、連歌(れんが)は周阿弥(しゅうあみ)、早歌(そうか)は諏訪顕阿(けんあ)・今田弾正(だんじょう)の両流、物語は珠阿弥(しゅあみ)に学んだ当代一流の文化人であった。平芝(ひらしば)・漆田(うるしだ)・後庁(ごちょう)・門前・善光寺・横山と連続した一帯は都市的空間となり、室町期の善光寺平における門前町(地方都市)として大きく発展した。
平成八年(一九九六)からの大門町地籍での発掘調査では、「応安二年(一三六九)」「永徳三年(一三八三)」「応永三十一年八月二十六日高阿弥陀仏」「明応八年(一四九九)八月十三日□阿」などの銘文をもった石塔が出土した(写真73)。応永七年には善光寺の桜小路に「玉菊」「花寿」の遊女(あそびめ)がいて、縁のあった坂西長国(ばんざいながくに)の回向(えこう)にあたった。寛正(かんしょう)六年(一四六五)加賀金劔(かなつるぎ)宮僧堯恵(ぎょうえ)は北陸経由で善光寺に参じ「瑠璃檀(るりだん)をめぐり」、宿坊から戸隠山の岩屋に「多力雄(たぢからお)」の神を拝している。信濃町霊泉寺跡には「応永十一年八月時正」の銘文のある石皿がある。室町時代には善光寺信仰と戸隠・飯縄(いいずな)信仰とがセットになり、多くの参詣人を集めた。善光寺から飯縄・戸隠に向かう参道の芋井字鑪(たたら)の地蔵堂に「上野(こうずけ)国群馬郡府中(ふちゅう)住人宗泉(そうせん) 永享(えいきょう)五年(一四三三)六月日」「重阿(ちょうあ)・口慶(こうけい)」の銘文をもった十一面観音坐像が奉納されている。この銘文とまったく同じ石仏が松代町吉池重行宅の阿弥陀如来坐像として残る(中世扉写真)。この場所は上野国から善光寺に向かう大笹(おおざさ)街道沿いである。上野国府中の住人が善光寺から戸隠に向かう参道に沿って石仏を奉納したことがわかる。
善光寺信仰の広域性は海外にまでおよび、応仁(おうにん)二年(一四六八)に善光寺の住職善峰(ぜんぽう)は、対馬(つしま)国の宗貞国(そうさだくに)に使者を送り、李氏(りし)朝鮮との交易を要請している。東国で朝鮮との交易をおこなおうとしたのは善光寺のみであった。
善光寺とともに歌枕(うたまくら)の名所として多くの歌人を集めたのが更級郡の更級八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)であった。文明十年(一四七八)連歌師宗祗(そうぎ)が更級八幡宮神主家での連歌(れんが)会に参加し、文明十六年幕府政所(まんどころ)奉行人の蜷川(にながわ)貞相は和歌五五首を奉納している(写真74)。永正(えいしょう)十二年(一五一五)連歌師宗長(そうちょう)も駿河(するが)から、諏訪、坂木の青蓮寺(しょうれんじ)、市村郷の「吉益紀伊守(よしますきいのかみ)」や高井郡高梨摂津守(せっつのかみ)亭での連歌会に参じた。
こうした国人らの京都文化との交流は活発であった。高井郡の国人井上氏は永享(えいきょう)九年(一四三七)将軍に受領名(ずりょうめい)を朝廷に推挙してもらうために幕府に銭一〇〇貫文・太刀(たち)一振を進上した。寛正(かんしょう)六年(一四六五)五月佐久郡の国人大井氏は、将軍御料所の埴科郡船山(ふなやま)郷への入部許可を得るため、幕府政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞親(さだちか)に馬一匹を贈っている。高井郡高梨政盛は文亀(ぶんき)三年(一五〇三)、京都一流の文化人三条西実隆(さんじょうにしさねたか)から古今(こきん)和歌集を伝授され礼銭五貫文を送っている。北信濃の国人らと幕府・京都との交流は大きく発展し、京文化と田舎風の文化との融合が進んだ。北陸道をへて越後国府から善光寺に入部する旅行者も激増して、漆田・平芝・後庁・門前・善光寺・横山一帯は、善光寺の門前町として自立するようになった。天文(てんぶん)十六年(一五四七)には「桜小路」に「大工せんさえもん」の父子兄弟がいた。この大工の前身では享禄(きょうろく)四年(一五三一)に善光寺の指図(さしず)(設計図)を作成した「如来大工遠江守(とおとうみのかみ)」が知られる。こうして善光寺門前町は、伊勢神宮の門前町宇治山田とならび称されるようになった。