善光寺門前町は、守護所や後庁(ごちょう)という政治権力と善光寺の宗教権力が門前の経済権益を独占するなかで都市的空間として成長、発展した。しかし、一五世紀後半からかげりがみえるようになる。善光寺と結んだ守護権力が衰退しはじめたのである。
室町時代も末期になると、将軍足利義持(よしもち)が鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)と鋭く対立するようになり、関東での争乱がはげしくなった。応永二十三年(一四一六)上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱、応永三十年下野(しもつけ)争乱などでは、信濃軍勢を関東に動員するため幕府は小笠原政康(まさやす)に出兵を命じた。応永三十二年にも甲斐(かい)争乱での出兵を機会に政康は信濃守護に補任(ぶにん)された。永享(えいきょう)十二年(一四四〇)結城(ゆうき)合戦では信濃守護小笠原政康が陣中奉行となった。独裁的権力をにぎった将軍義教(よしのり)の権威を背景にした政康による信濃軍の軍事動員にたいして、信濃の中小国人のほとんどすべてが参陣した。室町前半では関東や北陸の軍勢が動員されて信濃の国人一揆(こくじんいっき)を鎮圧したが、室町後半になると反対に信濃の軍勢が関東公方の反乱を鎮圧するために国外に動員され、信濃国人層が関東に出兵していったのである。屋代氏や力石(ちからいし)氏・会田(あいだ)氏らが関東管領上杉氏の被官(ひかん)として常陸(ひたち)・上総(かずさ)など関東に進出していった。
しかし、嘉吉(かきつ)元年(一四四一)戦勝祝賀の席で将軍義教が暗殺されると、信濃守護政康も翌年二月小県郡海野(うんの)で死去した。原因不明であるが、政康は譲状(ゆずりじょう)を残さぬまま死去したため、守護職(しき)をめぐって政康の子宗康(むねやす)と甥持長(おいもちなが)とが争い、文安(ぶんあん)二年(一四四五)・三年の信濃大飢饉(ききん)のなかで信濃文安の変が起きた。宗康は漆田原(うるしだはら)の合戦で敗死した。この時期まで、信濃守護所は平芝・漆田にあった。幕府は伊那郡伊賀良(いがら)の小笠原光康(みつやす)を守護に任命したが、府中(ふちゅう)深志の小笠原持長・清宗はこれに反対したため、信濃小笠原家は、伊那小笠原家と府中小笠原家に分裂した。享徳(きょうとく)三年(一四五四)享徳の乱で足利成氏(しげうじ)が将軍に反旗をあげ、光康に出兵が命じられても、府中小笠原氏の反対で出陣できなかった。こうして平芝・漆田守護所の機能は事実上衰退、消滅しはじめた。
寛正(かんしょう)四年(一四六三)には越後守護上杉房定の一族右馬頭(うまのかみ)が高井郡高梨政高に討たれた。中野郷の高橋付近の事件とされている。高梨氏は幕府の政所(まんどころ)執事伊勢氏や政所代蜷川親元(だいにながわちかもと)らに斡旋(あっせん)を依頼したが、政治交渉に敗れ、幕府は寛正六年上杉房定と小笠原光康の二人に高梨・村上討伐令を出した(写真75)。このとき、信濃守護は上杉氏と小笠原氏との二人制であった。文明九年(一四七七)にも上杉房定と小笠原政秀が信濃守護になっていることが確認される。こうした守護を半国守護といい、畿内(きない)には類例がみられ珍しくはなかった。この将軍義政の治罰御教書(ちばつみぎょうしょ)にしたがい、翌文正(ぶんしょう)元年(一四六六)・二年にかけて香坂(こうさか)・小田切氏が高梨領の和田郷を占拠した。井上安芸守満貞(あきのかみみつさだ)も村上氏と合戦におよび戦死している。海野氏も村上氏攻撃に参加した。将軍義政の命令は、善光寺平周辺の中小国人を動員し高梨・村上氏を攻撃させる効力をもっていた。これを「信濃文正の変」という。