しかし、高梨・村上氏はこの戦乱での窮地を克服し、中小国人や一門を被官や家臣化して地域支配者として成長していく。文明(ぶんめい)六年(一四七四)には高梨政高が和田郷の知行を回復し、吉田郷の吉田氏を高梨氏の代官にした。高井郡新野(しんの)郷には原秀長・秀高、新保(しんぽ)郷では江部(えべ)高長を知行代官に組織した。文明十六年高梨政盛は一門の高朝(たかとも)が高野山参詣の留守中に山田城を攻め落とし、一門の高梨治部少輔(じぶのしょう)には江部郷を知行安堵した。内乱のなかで、地侍や親戚一門までを被官や家臣団としてタテの主従関係に組織していった。
守護小笠原氏の所領であった漆田(うるしだ)郷では寛正(かんしょう)三年(一四六二)から文明年間には国人漆田氏の秀興(ひでおき)・秀豊・貞秀の三代がつづけて知行人になる。四宮(しのみや)荘でも小笠原一族の赤沢対馬守(つしまのかみ)の所領で代官千田(せんだ)氏が知行していたが、文明十二年には桑原貞光が国人として知行した。小笠原氏の所領が北信濃から消滅し、自立した国人の所領に変わった。こうして中小国人の内戦・紛争が激化した。風間光直は寛正二年から風間郷や平林郷を支配し代官原近光を派遣したが、文明四年に平林郷を今井広範(ひろのり)に奪われ、翌五年には風間氏が頓死(とんし)し家中も死去し勢力を失い、文明十二年には村上高国が風間郷を支配するにいたった。栗田郷の栗田氏は一時漆田氏の城を占拠し、文明三年には市村郷を知行したが、村上氏の同名吉益(よします)清忠・信経・清長・清経らに取って代わられた(写真76)。真島郷の馬島昌秀(ましままさひで)・昌持、河井郷の河井胤景(たねかげ)・領景らも中小国人であったが、永正(えいしょう)十年(一五一三)には小島田(おしまだ)郷も「村上香坂(こうさか)領中に候」といわれるように村上氏の勢力下に組みこまれていった。村上氏が戦国大名化していく。
北部では、高井郡の須田氏も為国・満信のころ布野(ふの)郷(柳原)を知行し、中島長能(ながよし)・信重らを被官にした。井上氏は永享(えいきょう)十年(一四三八)には栗田殿名代(みょうだい)であったが、文明・延徳(えんとく)年間(一四六九~九二)には井上政家・政満・康満の代に井上郷・亘理(わたり)郷・小柳(おやなぎ)郷・長池郷・南高田郷を知行し、代官に吉田高秀・馬場信家・稲田道椿・中沢家重を任命し、一門の富長(とみなが)為信・政長や岩崎泰満らも勢力を伸ばし、戦国争乱のなかで有力国人になった。これら井上氏の被官衆の名字はいまでも数多く残っている。島津氏は赤沼・長沼郷を知行して成長する。赤沼郷の島津氏は忠国・朝国(ともくに)二代にわたって常陸介(ひたちのすけ)を受領(ずりょう)名とし、野田長興(ながおき)・国長を代官にした。長沼郷の島津氏は道忠・常忠・信忠・清忠の四代ほぼ四〇年間知行しつづけた。代官に稲舂(いなつき)・鷹野・鳥居氏らを任命していた。
善光寺平や信越国境地帯では国人層が台頭した。永正(えいしょう)四年(一五〇七)に越後永正の乱が勃発した。守護代長尾為景(ためかげ)が上杉定実(さだざね)を守護に奉じて、現守護上杉房能(ふさよし)を攻撃した。同六年になると関東管領(かんれい)上杉顕定(あきさだ)が越後守護上杉定実と守護代長尾為景を討伐するため軍勢を派遣した。信濃からは高梨政盛・小笠原・市河・泉ら信濃衆が一体となって長尾為景を支援して越後妻有荘(つまりのしょう)で戦ったが敗北した。定実は越中に、為景は佐渡に逃亡し流浪を余儀なくされた。永正七年には長尾為景・高梨政盛軍が関東管領上杉憲房(のりふさ)と父顕定(あきさだ)を越後長者原で破った。しかし、同十年になると守護代為景と守護定実(さだざね)が対立し戦闘状態になった。島津貞忠ら信濃衆は守護定実に味方したが、高梨澄頼(すみより)一人が守護代為景と同盟した。高梨氏の一門小島氏や被官夜交(よませ)氏・中野浪人衆らは高梨氏に背いて信濃の乱が勃発した。敗北した中野浪人らは村上・香坂方の小島田(おしまだ)に集結し中野で決起したが敗北した。越後と信濃の乱とが結びついて信越国境は内乱状態になった。高梨澄頼(すみより)はこの危機を乗りきったが、永正十六年には信濃衆の島津貞忠が為景と講和した。その後、高梨澄頼は信濃から追われ、大永(だいえい)四年(一五二四)になり為景の支援によってようやく信濃に帰国した。一時越後に難をさけていた高梨政頼も高井郡の館(やかた)に帰国し、信濃衆の盟主として台頭した。