下総磯部(しもうさいそべ)の勝願寺(しょうがんじ)はいくつかの子院を善光寺平に進出させた。磯部六ヵ寺と伝承が残る。そのひとつが長沼浄興寺(じょうこうじ)であった。永享(えいきょう)六年(一四三四)二月長沼浄興寺の周観(しゅうかん)が上洛(じょうらく)し、本願寺存如(ぞんにょ)から親鸞(しんらん)の「愚禿抄(ぐとくしょう)」の書写を許された。周観にあてた存如書状によれば、このころ、周観の子息彦太郎が在京して本願寺で養育されており、下総磯部の善忠坊が長沼・笠原(中野市)をへて越後国府を介して越中瑞泉(ずいせん)寺に向かい山科本願寺にのぼっている。長沼・赤沼郷の国人島津氏は、浄興寺や本願寺を援助しており、本願寺存如は島津氏から五貫文を借用して返却できず、その工面を周観に依頼しているほどである。
蓮如(れんにょ)の代になると、周観の子息了周・子順が在京して本願寺で教育されていた(写真78)。蓮如は長禄(ちょうろく)元年(一四五七)本願寺門主に就任したが、この巧如(こうにょ)・存如・蓮如の三代がもっとも困窮しており、文明五年(一四七三)九月二十三日に長沼浄興寺巧観(こうかん)の要請にこたえて法然(ほうねん)上人絵伝に裏書をした。このころ、長沼から本願寺に五貫文・二貫文の銭や四文目(もんめ)の金が「御志」として頻繁に贈られている。蓮如の書状には「板東下向(ばんどうかこう)のこと路次のうち子細なく松島まで下向せしめ候」とあり、関東から東北にさかんに布教活動を展開していたことがわかる。善光寺平でも、西巌寺(さいごんじ)や西和田の小根山氏宅などに蓮如参詣伝承が残っている(写真79)。本願寺門主からの方便法身(ほうべんほっしん)像等の下付が、高井郡大岩郷(須坂市)の普願(ふがん)寺では明応七年(一四九八)、埴科郡倉科(千曲市)の新田本誓寺では永正八年(一五一一)、太田荘黒河郷(牟礼村)平出願生寺で永正十六年に確認されている。
本願寺が山科から石山(いしやま)(大阪市)に移ったころから、真宗寺院が変化しはじめた。天文(てんぶん)三年(一五三四)本願寺証如(しょうにょ)は、芋川荘二蔵(にのくら)郷の浄専坊に方便法身像を下し裏書をした。その裏書には「長沼浄興寺門徒浄専坊」とあり、寺家と門徒をタテの系列で編成した。天文五年証如が浄興寺にあてた書状には、康楽寺を介して「志まちいり候」と命じ上納金を義務づけ、「門徒中へも申しつたえられ候へき候」とある。「信州坊主衆」と「惣門徒衆」とを区別して志をとりたてる体制になっていた。本願寺―末寺―坊主衆―門徒中というタテ系列の家政権力体系が生まれていた。
天文二十二年閏(うるう)五月、高梨政頼は家臣の岩井民部大輔(みんぶたいふ)・若党らをつれて上洛(じょうらく)し、石山本願寺を訪問した。在京百日役を高井郡内の諸郷から徴収して上洛用途をまかなった。北信の一向一揆の動向にかかわる政治交渉をおこなった。永禄(えいろく)十一年(一五六八)十月二日、武田信玄(しんげん)が善光寺平に進出したとき、真宗寺院西厳寺は長沼郷内四〇貫文の所領を安堵(あんど)され、越後口出兵のときには野伏一人の出陣を義務づけられた。翌日には高井郡福島(ふくじま)(須坂市)の勝楽寺、水内郡小市(安茂里)の称名寺(しょうみょうじ)、埴科郡松代の証蓮寺(しょうれんじ)が、軍勢による乱暴狼藉禁止の制札を信玄から獲得した。いずれも一向宗寺院である。こうして善光寺平の埴科郡倉科・松代、高井郡福島・大岩、水内郡中俣(なかまた)・長沼・芋川・黒河には真宗寺院が広がり、信濃一向一揆の拠点地域となっていた。長沼島津氏や井上・高梨・芋川氏ら国人層も真宗寺院と一体化していった。