戦国騒乱と川中島合戦

204 ~ 207

越後守護代長尾氏のほかに、甲斐守護武田氏も信濃の乱に介入した。諏訪では上社大祝(おおほうり)諏訪頼満(よりみつ)と下社大祝金刺興春(かねさしおきはる)が抗争をくりかえし、大永(だいえい)五年(一五二五)金刺氏は甲府に武田信虎(のぶとら)を頼った。佐久でも国人伴野貞慶(とものさだよし)と大井行満(ゆきみつ)が対立し、大永七年敗北した伴野貞慶は甲府に信虎を頼った。天文(てんぶん)九年(一五四〇)信虎は佐久郡に侵攻し、翌年には武田・諏訪頼重(よりしげ)・村上義清(よしきよ)連合軍は海野棟綱(うんのむねつな)を破った。この年信虎は子息晴信(はるのぶ)に追放され、晴信は天文十一年諏訪頼重を滅ぼし、諏訪から伊那谷をうかがういっぽう、佐久郡から小県郡に進出しようとした。天文十七年には上田原の合戦で村上義清に敗北した。このため武田軍は、諏訪・塩尻方面に転戦して塩尻峠で小笠原長時(ながとき)を破り、同十九年府中に入り深志城を築いた。

 天文十九年八月、武田晴信がふたたび小県郡戸石(といし)城を攻めると、村上義清と高梨政頼との同盟が成立し、その連合軍が武田軍を破った。このため、武田軍は筑摩・安曇・更埴方面に迂回(うかい)し、村上義清を挟撃しようとした。天文二十一年小笠原長時・貞慶(さだよし)父子を京都に追放し、翌二十二年筑摩郡から麻績(おみ)に出て更級郡の屋代政国を味方にして、埴科郡葛尾(かつらお)城を北から挟撃した。義清は戦わずして塩田城に逃げこんだが、更級土豪一揆(どごういっき)が八幡(やわた)で武田軍に敗北し狐落(こらく)城が落城すると、塩田城も自落した。村上義清は越後に逃亡し長尾景虎を頼った。このとき長尾景虎が善光寺平に出陣し、第一回川中島合戦が戦われた。九月一日長尾軍は八幡(やわた)で武田軍を破り、新砥(あらと)城に迫った。四日には会田(あいだ)の虚空蔵山(こくぞうざん)城を落とし、十七日には坂木南条に放火した。二十日にようやく長尾軍が撤兵すると、晴信も十月七日塩田城から深志城に陣をひいた。長尾景虎はその直後はじめて上洛(じょうらく)して越後・信濃の敵を治罰(ちばつ)した賞として綸旨(りんじ)を得た。この景虎上洛にさいして、笠原本誓寺の超賢(ちょうけん)が加賀一向一揆と交渉し通路を確保した。

 天文二十三年、武田軍は下伊那や木曽に転戦し、知久(ちく)・下条・木曾氏らを服属させ、弘治(こうじ)元年(一五五五)には安曇郡千見(せんみ)城(美麻村)を攻め糸魚川口の信越国境を侵した。このため長尾景虎は善光寺横山に出陣する。武田軍も大塚(青木島)に対陣して第二回川中島合戦となったが、駿河(するが)の今川義元の仲介で旭山城を破却して両軍が撤退した。

 武田軍は弘治二年に雨飾(尼巌)(あまかざり)城(松代町)を攻略した。翌三年二月には雪のなかで葛山(かつらやま)城(写真80)を攻め、上杉方の落合惣領家(そうりょうけ)を破り、島津氏は大蔵(おおくら)城(豊野町)に後退した。静松寺(じょうしょうじ)にあてた晴信書状によれば、惣領家の落合氏は上杉方に属したが、庶子家の落合遠江守(とおとうみのかみ)と同名の三郎左衛門は武田方に内通していた。一族内部の分裂はこの時期どの一族にも共通している。高梨一門もほとんどは上杉方に味方したが、山田(原)左京亮(さきょうのすけ)は武田方に味方し、二月十七日付で本領五〇〇貫文と新恩として大熊郷七〇〇貫文を宛行(あてが)われた。飯縄(いいずな)神社の千日大夫(せんにちだいふ)も上杉方と武田方に内部分裂した。


写真80 葛山城跡 山頂に本丸の跡(北方の芋井荒安よりのぞむ)

 武田軍は小川城(小川村)・柏鉢(かしわばち)城(中条村)から鬼無里(きなさ)・飯縄にぬけ、山岳地帯を進軍して信越国境をうかがう戦略に出た。三月二十四日長尾景虎は出陣して山田要害と福島(ふくじま)城(須坂市)を攻略し、四月善光寺に着陣、旭山城を再興して日賀野(ひがの)(氷鉋(ひがの))原に武田軍を破った。武田軍は決戦をさけた。将軍足利義輝は景虎上洛のため信玄に和議を命じたが、信玄はこれを無視する。永禄(えいろく)元年(一五五八)に入ると、将軍の停戦命令にしたがう意思を示して信濃守護職(しゅごしき)に任じられた。これを口実に深志城を整備して「信府(しんぷ)」とし信濃守護としての信濃統治に着手した。四月には、柏鉢(かしわばち)城(中条村)、更級大岡城(大岡村)、東条(ひがしじょう)城・雨飾城(松代町)など諸城の在番衆を定め、善光寺平を事実上統治することに成功した。

 個別戦闘には勝利しながら戦略的に敗北した長尾景虎は、永禄二年四月上洛して、将軍義輝から「信濃国諸侍事、弓矢半(なかば)の由に候間、始末景虎意見を加うべきの段肝要に候」との御教書(みぎょうしょ)をうけ、関東・信濃出兵の正当性を認められた。永禄三年景虎は上杉憲政(のりまさ)をともなって関東に出陣して小田原城を攻め、鎌倉で関東管領職(かんれいしき)に就任し上杉政虎と改名した。

 永禄四年に川中島に出陣し、信玄も出陣する。九月十日両軍が対戦し、信玄の弟信繁(のぶしげ)が戦死する激戦を展開した。しかし、これを最後に、政虎は毎年関東に出兵し、信玄は西上野(にしこうずけ)の平定をめざして、北信濃は主戦場でなくなった。永禄六年四月信玄は飯縄山麓(さんろく)に道路を建設したが、出陣は取りやめた。政虎は同年八月、飯山城に越後国人桃井(もものい)・加地(かじ)氏を城代として派遣し、永禄七年には野尻(のじり)城をめぐって両軍が対立し、武田軍は陸奥会津の葦名(あしな)氏と結んで越後を攻撃した。このため、政虎は永禄八年七月二十九日に善光寺に出陣した。武田軍も塩崎に陣をとったが、持久戦を展開し、武田軍は小玉坂(こだまざか)(牟礼村)や髻山(もとどりやま)(若槻)付近で兵を動かしたのみであった。こうして、両軍の前線は、野尻城(信濃町)や飯山城(飯山市)など信越国境地帯となり、信玄の信濃支配は動かないものとなっていた。