戦国時代は戦争や災害・飢饉(ききん)・疫病が日常化していた。その影響は地方経済や地方都市に大きな影響をあたえた。とくに、川中島合戦のような大きな戦争では、寺院・神社が戦闘に動員されて大きな戦争勢力となった。
弘治(こうじ)三年(一五五七)武田信玄は善光寺本尊を甲府に移すように命じ、栗田氏・本願上人・中衆をも移住させた。このとき、戸隠・飯縄(いいずな)・小菅(こすげ)社などを破壊した。同年三月二十八日「飯縄山事、父豊前守抱(ぶぜんのかみかかえ)候時のごとく相違あるべからず」と飯縄千日大夫(せんにちだいふ)に安堵(あんど)したのは、飯縄の山伏集団を武田方に味方させ再編成したことを示している。永禄元年(一五五八)に信玄は善光寺門前の町人や僧侶(そうりょ)らにも甲斐への移住命令を出した。こうして善光寺門前町ではその住民までが甲府に強制移住させられ荒廃を余儀なくされた。永禄十一年四月に信玄は栗田鶴寿(かくじゅ)に命じて甲斐善光寺の条規を定めている。戦国期の善光寺信仰の本拠地は信濃から甲斐に移ってしまった。
上杉輝虎も善光寺衆徒や町人らを春日府内(上越市)に強制移住させた。永禄七年には上杉輝虎は越後弥彦(やひこ)神社や更級郡八幡宮に「晴信悪行事」として願文(がんもん)を捧げた。そのなかで「戸隠・飯縄・小菅(こすげ)・善光寺の供僧(くそう)を断絶し社領没収の事」や「仏供(ぶっく)灯明を備えざる事」をあげている。これらの寺社が、川中島合戦で大きな被害をうけ退転、荒廃していたことがわかる。もちろん、輝虎自身同様の政策をとっていたことは、同年の書状で「春日府内善光寺門前、そのほか火の用心の義について重ねて申し遣(つかわ)し候」と金津新兵衛に命じており、越後府中に善光寺を移転させていたことからもわかる。
永禄十二年十一月信玄は「来庚午年(きたるかのえうま)(一五七〇)に至らば、神約のごとく飯縄を甲州勧請(かんじょう)」と起請文(きしょうもん)を出し、事実元亀(げんき)元年(一五七〇)飯縄社を現山梨県身延(みのぶ)町下山に移転させた。戸隠社や飯縄社の神官や山伏らも、武田方に味方するもの、上杉方のもの、中立で筏ヵ峰(いかだかみね)(小川村)に難を逃れるものなど二分、三分して、甲州・越後などに分散移住した。本山を離れるものが続出し、本寺・本社は荒廃のままになった。
天正三年(一五七五)武田勝頼が信長に滅ぼされると、善光寺如来は岐阜城下に移され、その子信雄が尾張甚目寺(じもくじ)に移した。その後、家康は浜松城下鴨江寺(おうこうじ)に迎え、一度は甲府にもどしたが、秀吉が慶長二年(一五九七)京都に移し方広寺(ほうこうじ)の本尊とした。翌年八月、秀吉は遺言を発し、善光寺如来を信濃に送りかえすように命じた。こうして四二年間、善光寺如来は流転をくりかえし、善光寺門前町は荒廃をきわめた。天正九年(一五八一)伊勢御師(おし)宇治久家(ひさいえ)の檀家(だんか)への御札配りでは、善光寺の信者は二人があげられているにすぎない。