こうして善光寺門前町が荒廃するいっぽう、新興の商人や町場・城下町が形成された。一六世紀後半の戦国社会は、戦国都市が建設される地域開発の時代でもあった。
善光寺平で新しい戦国政治都市が姿をあらわしたのは、第一には長沼城下であった。長沼島津氏の領地であった長沼郷は千曲川の氾濫原(はんらんげん)とその自然堤防上の集落であった。この地形を利用して河城(かわじろ)を築城したのが信玄であり、海津城とまったく同じ地形を活用した。永禄六年(一五六三)八月信玄は「長沼の地下人(じげにん)」と「在島の族(やから)」に長沼に還住(げんじゅう)するように命令をだした(写真82)。「在島の族」たちは中州を利用して定住した農民である。城下の建設がすすみ、永禄十一年三月二日に信玄は長沼城に在陣し、ここから越後出兵に乗りだしている。八月十八日の上杉謙信書状にも「長沼再興の由」とあり、武田方の長沼城下の建設状況を上杉方も把握していたことがわかる。
武田勝頼の代には天正七年、長沼在城衆に断わって佐久郡竜雲寺(りゅううんじ)の造営のために小県郡中の番匠(ばんじょう)の半分を動員することを認めた。この時期、長沼城や城下町の武家屋敷・町屋・寺屋敷などの普請に小県郡中の番匠を動員していたことがわかる。勝頼の代には、長沼城に「御料所(ごりょうしょ)」「城領(じょうりょう)」とよばれる武田氏の直轄領が置かれ、葛山(かつらやま)領の一部が長沼城領に指定された。上杉景勝の時代には、葛山衆は長沼城下に参じるように命じられ、城主島津忠直の監督下に置かれた。葛山衆はこれを不満として直江兼続(なおえかねつぐ)に提訴して越後府中に移住していった。
第二の戦国都市は海津城下である。松代の尼巌(あまかざり)山城は東条(ひがしじょう)城ともよばれ、天文二十二年(一五五三)に西条治部少輔(にしじょうじぶのしょう)が武田晴信に通じて「東条普請の儀」を頼まれて東条に着陣した。弘治二年(一五五六)当時は上杉方の東条信広が守っており、八月八日武田方の真田幸綱(ゆきつな)が攻略中であった。この年以後、武田方の文書には海津城の名が登場する。海津城の初見史料は永禄三年(一五六〇)九月二十三日の内田監物(けんもつ)あての信玄書状であり、築城は永禄元年ころに開始されたと考えられている。永禄十一年十月二日長沼西巌寺(さいごんじ)にあてた安堵状には、長沼が万一の場合には海津城に入り野伏を出すように命じているから、海津城も完成していたことがわかる。
第三の戦国政治都市は牧野島(まきのしま)城下(信州新町)である(写真83)。この地はもと牧城といい、香坂(こうさか)氏の支配下にあった。武田信玄は春日虎綱を入れて、永禄九年に牧野島城の築城工事をはじめた。同年閏(うるう)八月二十七日跡部・中牧・平林・禰津(ねつ)・吉原・村越・日名(ひな)・日熊(ひくま)をはじめ三〇人の国人・地侍にたいして、「おとも」の替え地として牧山中に一六〇貫文の地をあたえた。これらの地侍はのちに牧野島衆とよばれている。新しい城下町建設が地域開発の拠点となっていった。