これら新興都市を支えたのは、経済的な有徳人(うとくにん)らやそれを檀那衆(だんなしゅう)として組織した伊勢御師(おし)であった。天正九年(一五八一)当時、善光寺平の御師の檀那場は「川中島」「葛山(かつらやま)」「長沼」の三つに区分編成されて、御師が宿泊する宿や、御札とともに檀那に渡す音物(いんもつ)(手土産)の「のし」「ふのり」「青海苔(のり)」「茶」の種類と量が決められていた。檀那衆もそれに応じて月牌(げっぱい)料・日牌(にっぱい)料を寄進し、その「御祓(おはらい)くばり日記」(写真84)から善光寺平の経済動向をうかがうことができる。
まず、川中島では市村(芹田北市・南市)には「問屋藤七郎殿」と「御代官豊後(ぶんご)殿」という有徳人(うとくじん)が住み、荒木には「せん四郎」「与四郎」「弥左衛門」、中越には「番匠(ばんじょう)」の「周防(すおう)殿」とその「子息五衛門」、駒沢には「民部丞(みんぶのじょう)殿」、風間には「大夫式部少輔殿」、大豆島(まめじま)には「下総(しもうさ)殿」「中村半右衛門殿」、東和田の「縫殿助(ぬいのすけ)」、吉田町では「藤左衛門」と「子息新四郎殿」らが知られる。市村・荒木や風間・大豆島は犀川・裾花川・千曲川の渡し場にできた町場であり、吉田町も「よし田のまち」と記されているように、農村の町場として発展していたことがわかる。中越の周防殿宅は「やと也(なり)」とあり、伊勢御師の宿泊場所であった。これらの檀那衆が地方の有徳人で、職人や問屋・町人・神官・寺僧など有力者であったことがわかる。
戦国時代に新興都市として発展した海津城下では、「西念寺」と「駒沢主税助(ちからのすけ)殿」の二軒が伊勢神宮の御札配りの拠点であった。駒沢郷の有徳人や寺院が城下に集住しはじめていたことがわかる。
「長沼」とは長沼城下の檀那衆で、「長沼荘左衛門殿」「和田善左衛門殿」「島津左京進殿」「栗田左京助殿」「平林民部左衛門殿」「若槻丹波守(たんばのかみ)殿」「回向坊(えこうぼう)」「屋代殿」「関源右衛門殿同名衆(どうみょうしゅう)」「町の善助」「同藤右衛門」「片塩二助」「大倉の生板沢殿」らがあげられている。若槻・平林・島津・栗田・屋代氏など侍身分や「栗田殿被官(ひかん)」と注記された片塩二助や現松代町豊栄(とよさか)の源関(げんせき)神社の関係者、「元八幡の人」という回向坊など、武士層・神官・僧侶などが城下に集住していたことがわかる。
こうして善光寺の門前町が荒廃するなかで、あらたに長沼城下町や海津城下町、牧野島城下町など新興都市が形成され、新しい地域経済圏が形成されていったのである。