天正十年(一五八二)は戦国期でも特別な激動の一年であった。信長は信濃侵攻の軍勢を派遣し、伊那谷・木曽谷をすすみ、三月諏訪に在陣し、武田勝頼を滅亡させた。信長は武田領を再分割する「国割(くにわり)」をおこない、美濃出身の家臣森長可(ながよし)に川中島四郡を支配させ、統治のための政策方針として「国掟(くにおきて)一一ヶ条」を定めた。「関銭(せきせん)(関所通過料)をとらない」「百姓に本年貢以外非法の課役を賦課(ふか)しない」「知行主は家臣に領地を配分し、あらたに家臣を召しかかえる」「領内の道路を整備する」「境目争いを停止(ちょうじ)すること」などを命じて、武田領国よりも生活が改善するとの期待感をもたせるものであった。
森長可は同年四月五日海津城将の小幡山城守昌虎(おばたやましろかみまさとら)に「当知行」を安堵したのを皮切りに、大室(おおむろ)・西条・窪島(くぼじま)・清水・大滝・小島・夜交(よませ)・市河信房に当知行を安堵した。さらに同日、康楽寺(塩崎)・勝楽寺(須坂市福島)・証蓮寺(しょうれんじ)(松代町)、翌日には勝善寺(須坂市)に禁制(きんぜい)を発し、軍勢による乱暴狼藉(ろうぜき)などを禁止した。いずれも善光寺平の一向宗(いっこうしゅう)寺院である。森が北信の一向一揆(いっき)に細心の注意を払っていたことがわかる。
しかし、この同じ日に芋川親正(ちかまさ)を大将とする善光寺平の一揆が信長軍の統治に反対して蜂起(ほうき)した。海津城に森長可が入部し、稲葉彦六が飯山城に出兵したとき、一揆軍が飯山城を取り巻いた。甲斐の信長父子から稲葉勘右衛門や団平八らの援軍が派遣されると、一揆軍は山中に引きこもり、芋川を大将として大蔵古城(おおくらこじょう)(豊野町大倉)に防備を固めたてこもった(写真85)。四月七日に一揆勢は長沼口に八〇〇〇人ばかりで出兵し、森・稲葉軍が駆けつけ戦闘となり、一二〇〇人が討ちとられ、大蔵の女・童千余人が切り捨てられた。首二千四百五十余が信長のもとに送られた。飯山城にいた一揆軍も撤退し一揆は鎮圧された。天下統一の軍隊が反抗する住民をいかに殺戮(さつりく)するものであったかを示している。のちに飯山藩がまとめた天和(てんな)二年(一六八二)の「寺社領并(ならびに)由緒書」によると、東本願寺末寺の芋川妙福寺や西本願寺の長江(ながえ)真宝寺は、芋川越前守やその家来小山源之丞建立の伝承をもっており、この芋川氏を大将とした一揆が一向一揆であったことがわかる。
一揆軍は敗北したが、芋川親正は上杉景勝に味方し、同年四月十九日景勝から上杉景信の旧領を宛行(あてが)われた。五月二日にはのちに井上衆とされる安部・町田ら「信州一七騎の面々」が上杉方についた。森長可による北信濃支配は不安定なものであった。六月二日、信長が本能寺で自刃すると、長可は海津城から逃走する。信濃は大名がいない空白地帯となり、関東から北条氏政、東海・甲斐から徳川家康、越後から上杉景勝が侵攻した。六月六日上杉景勝が海津城の小幡昌虎に働きかけをはじめ、飯山城の市川・河野・須田・大滝らが上杉方に引き渡されると、北信濃の国人らは上杉方に味方するようになる。景勝が六月二十四日長沼城に着陣すると、原豊後守(ぶんごのかみ)、須田対馬守(つしまのかみ)、大狭兵部少輔(おおばひょうぶしょうゆう)ら態度を決めかねていた武士らが景勝のもとに出仕した。川中島四郡は上杉景勝の支配下に置かれることになった。