上杉景勝は四郡支配の拠点として長沼城を重視した。天正十年(一五八二)七月十三日、長沼城主に島津忠直を任命し、河北郡司(かほくぐんじ)としてその管轄地域を葛山(かつらやま)・大蔵より山中とした。長沼要害の普請や伝馬(てんま)・宿送りの人馬の徴発が任務とされた。七月二十六日には牧野島城主に芋川親正(ちかまさ)を任命し掟書(おきてがき)をあたえ、「芋川の下知(げち)に背き大途(たいと)(上杉景勝のこと)を軽んずる族(やから)これあるにおいては交名(きょうみょう)(名簿)をもって申し越すべきこと」を命じ、城主芋川氏の権限を強化した。深志城に入った徳川方の小笠原貞慶(さだよし)が上杉方の小笠原貞種を追って、安曇郡をうかがうことに軍事的に対応しようとしたのである。
海津城でも武田旧臣の春日信達(のぶたつ)が謀反(むほん)を理由に七月十三日殺害され、かわって村上景国(かげくに)が八月五日城主兼郡司に補任(ぶにん)された。牧野島城も村上景国の郡司管轄下とし、武田時代の先例に準拠すること、海津在城の侍の訴訟については景国が奏者(そうじゃ)として使者を添えるべきこと、罪科で所領没収や断絶処分となった侍の跡職(あとしき)は景国の自由処分とすることなど、大幅な権限を景国に公認した。八月八日には飯山城の城主に岩井昌能(まさよし)・信能(のぶよし)父子を任じ、長沼城主島津忠直と同じ掟書をあたえた。こうして、上杉景勝は長沼城・海津城・牧野島城・飯山城の四つの新興都市を拠点に川中島四郡支配の体制を整備した。
これに対抗する北条氏政(うじまさ)は、関東の上野(こうずけ)から碓氷(うすい)峠をこえて小県(ちいさがた)の海野(うんの)に着陣し、佐久の伴野(ともの)氏、小県の真田昌幸(まさゆき)、禰津昌綱(ねつまさつな)らを勧誘した。徳川家康も甲府に着陣し、依田信蕃(よだのぶしげ)を小諸城に入れ、伊那谷の知久頼氏(ちくよりうじ)、下条頼安(よりやす)、保科正直らをとりたて諏訪に着陣し、小笠原貞慶(さだよし)を支援して、上杉方と対戦した。小県・佐久でも上杉・徳川・北条が激突した。十月に入ると、家康は秀吉に対抗するため、北条氏政と講和を結び、真田領沼田と佐久・甲斐都留(つる)郡を交換した。このため、真田昌幸は徳川・北条に離反して自立化する動きをはじめた。
天正十一年には上杉領と徳川領との境目争いが激化する。家康は上杉方の城将屋代秀正を内密に帰属させ更級郡安堵(あんど)を約束した。安曇郡では徳川方の小笠原貞慶が上杉方の麻績(おみ)城を攻め、景勝は稲荷山城を築いてこれに対抗した。天正十二年三月には屋代秀正が上杉方に背いて荒砥(あらと)城に脱出し、海津城主村上景国も謀反の嫌疑で春日山に召還された。秀吉と家康の対立が深まり小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いが起きると、木曾義昌(よしまさ)が家康方から秀吉方に転じたため、徳川方の小笠原貞慶が天正十二年に木曽谷の福島城を占拠し、更級郡に侵攻した。体制を立て直すため、景勝は長沼城に在陣した。この間、越中の佐々成政(さっさなりまさ)は秀吉に反抗し、家康方に通じて魚津(うおず)城を攻めた。景勝はこれに対抗するため越中駐留軍として須田満親(みつちか)を派遣し秀吉との交渉にあたらせた。
天正十三年六月に景勝は、家康方との最前線を再建するため、須田満親を海津城に入れることにした。まもなく真田昌幸が上杉方に接近して、天正十三年七月十五日に上杉・真田同盟が成立する。景勝から昌幸に九ヵ条の起請文(きしょうもん)が出された。昌幸の二男信繁(のぶしげ)(俗称幸村(ゆきむら))が人質として景勝のもとに送られた(写真86)。家康は真田追討のため出兵を命じ、八月には甲州の徳川軍が禰津に陣をとった。真田昌幸は景勝に援軍を要請し、須田満親は井上・市川・夜交(よませ)・西条・寺尾・大室(おおむろ)・綱島・小田切・保科・清野・栗田可休斎(かきゅうさい)らを援軍に送った。いずれも善光寺平の国人(こくじん)・地侍(じざむらい)衆である。こうして真田・上杉連合軍が徳川・北条連合軍の大軍と戦い、閏(うるう)八月二日には国分寺の合戦で勝利した。九月には島津忠直・岩井信能(のぶよし)・栗田永寿(えいじゅ)らが北信の人夫を動員して上田城を普請し、真田は秀吉に援軍を要請した。徳川・北条連合軍はついに兵を引いた。松本の小笠原貞慶も家康に背いて徳川方の高遠城保科正直を攻め、十一月秀吉は真田・小笠原・木曾らに信濃・甲斐の統治を約束した。この結果、北信濃の戦局も景勝方優勢で安定することになった。
天正十四年五月二十日、景勝は関白になった秀吉に対面するため春日山城をたち、六月十四日大坂城に入った。十一月四日秀吉は「真田・小笠原・木曾両三人の儀も先度其方上洛(そのほうじょうらく)の刻(とき)申し合わせ候ごとく徳川所へ返し置く」と景勝に伝え、北信四郡は上杉領、残りは徳川領という体制が成立した。信濃での戦国動乱がようやくおさまった。