秀吉の朝鮮侵略と戸隠神社再興

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天正十六年五月景勝はふたたび上洛し、須田満親(みつちか)・直江兼続(かねつぐ)・色部長真(ながざね)の三人は秀吉から豊臣姓をあたえられ大名に準じる家格を得た。こうした秀吉の統治に最後まで抵抗したのが北条氏政であった。秀吉の裁定で真田と争った上田沼田領の三分の二を北条方が獲得したが、これを不満として北条家臣が真田属城名胡桃(なぐるみ)城を攻めた。秀吉は天正十七年十一月二十四日、北条氏追討の出兵を諸大名に命じ軍役を課した。景勝には一万人、真田には三〇〇〇人の軍役が賦課された。小田原征伐は翌年七月五日、北条氏の降伏で終わった。秀吉は会津仕置に出た。景勝は秀吉から出羽庄内(でわしょうない)(山形県)支配を公認され、その支配のため信濃衆を諸城に配置した。大宝寺城(鶴岡市)に木戸元斎(げんさい)、尾浦(おうら)城(鶴岡市)に島津忠直、藤島城(藤島町)に栗田刑部(ぎょうぶ)、酒田城(酒田市)に須田満親(みつちか)、観音寺城(東根市)に寺尾伝左衛門、菅野(すげの)城(遊佐町)に市川対馬守(つしまのかみ)を置いた。木戸氏以外はみな信濃衆である。この軍勢を動員して、北の仙北(せんぼく)地方や秋田方面の検地をすすめた。九月、奥羽の土豪(どごう)・侍・百姓らの一揆(いっき)が蜂起した。信州の戸狩(とがり)頼世や葛山(かつらやま)衆の立屋(たてや)喜兵衛・上野源左衛門らが庄内一揆の鎮圧に活躍した。天正十九年にも一揆蜂起がつづき、陸奥岩代(むついわしろ)地方の鎮圧に栗田永寿が動員され、文禄(ぶんろく)元年(一五九二)九月にも出羽で芋川親正(ちかまさ)、栗田永寿(えいじゅ)らが出兵させられている。

 連年の出陣がつづくなかで、天正十九年七月二十二日朝鮮侵略のための軍役動員令が出された。上杉軍五〇〇〇人、真田軍七〇〇人が肥前(ひぜん)(佐賀県)名護屋(なごや)城に着陣し、朝鮮に渡海すべき兵としてそれぞれ三〇〇〇人と五〇〇人が指定された。文禄元年三月一日上杉軍は春日山を出発、四月に名護屋城の米納戸浦についた。この越後・肥前間を米や軍需物資・兵を輸送する船団が往復した。その上乗(うわのり)として活躍したのが、葛山衆の立屋喜兵衛であった。秀吉は天正二十年十月十日豊臣秀次に渡海のため大型船の造船を命じ、大船用の綱の苧麻(ちょま)を信濃・甲斐で買いつけ肥前に輸送させた。千貫目の苧麻が直江兼続の指示によって肥前に運ばれた。

 景勝自身も文禄二年六月六日、秀吉の名代として小鷹丸に乗船して釜山浦(ふざんぽ)に渡海し、朝鮮の熊川倭城(わじょう)を築城して九月八日帰国した。高梨頼親(よりちか)や藤田信吉組だけで三一〇人が渡海し、四四人が朝鮮で病死した。戦死者は記録にない。捕虜や投降者も多かったことが知られるが、なによりも朝鮮の人びとへの残虐行為ははげしく、首や鼻を請取(うけとり)状として軍功を競った史料が残されている。長沼城主島津氏も渡海したらしく、朝鮮から持ち帰ったという李朝唐草文の漆皮箱がその子孫に伝えられている。上杉軍の兵糧米輸送や鉄砲・弓・槍(やり)・足軽などの輸送に立屋喜兵衛が従事した。

 戸隠神社の別当賢栄(けんえい)は、景勝の平穏帰国を祈祷し、無事帰国した景勝の支援によって文禄(ぶんろく)三年八月に社殿の再興を実現した。密蔵院栄尊(えいそん)が作事奉行をつとめ、中野郷住人越後居住の七郡大工職柳沢新右衛門が建設にあたり、脇大工惣治郎、番匠(ばんじょう)ら三六人は府中住人であった。

 七二会の守田神社には、天正十九年の火薬調合次第と文禄二年(一五九三)の「鉄炮打様之大事」が残っている(写真87)。永禄年間の上杉家文書に伝えられる火薬調合次第以外には全国最古の鉄砲秘伝書であり、岸和田流の鉄砲術が修験者(しゅげんじゃ)に普及していたことがわかる。


写真87 鉄炮秘伝書 鉄炮打様之大事とある (七二会 守田神社蔵)

 帰国後、上杉景勝は休むいとまなく秀吉の隠居所伏見城の築城を命じられ、文禄三年正月四〇〇人とともに上洛した。秀吉の第一次朝鮮侵略が失敗すると、財政難を克服するため、文禄四年正月景勝は秀吉から金山(かなやま)御代官に任じられ、越後・佐渡・出羽(でわ)での銀・鉛山の開発を命じられた。同年正月二十三日には庄内金山仕置注文が立屋喜兵衛と志田修理亮(しだしゅりのすけ)に命じられた。葛山衆という飯縄(いいずな)修験者の知識をもつ立屋氏が、鉱山開発にも動員された。こうして秀吉政権のもとで際限のない軍役に、大名も、善光寺平の家臣や百姓までも、駆りたてられる社会に突入していったのである。