災害と消滅した中世の村々

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慶長二年(一五九七)六月、甲斐(かい)にあった善光寺如来は秀吉から上洛(じょうらく)を命じられ、方広(ほうこう)寺の本尊として安置された。秀吉の病気平癒を願うためで、甲斐から京都まで人足五〇〇人、伝馬二三六匹での送迎が諸大名に命じられ、山内一豊(かずとよ)・池田輝政・福島正則(まさのり)・徳川家康らが関与し、大津からは天台・真言の僧侶(そうりょ)一五〇人が供奉(ぐぶ)した。九月には「大明朝鮮闘死之衆」の耳塚(みみづか)を如来堂西門前に築かせ、その供養のため大施餓鬼(おおせがき)を木食応其(もくじきおうき)と西笑承兌(せいしょうしょうたい)に執行させた。敵味方とも供養するという中世の作法にしたがい戦死者の追悼(ついとう)がおこなわれた。

 慶長三年正月十日、景勝は突然、会津への国替(くにがえ)を秀吉から命じられた。石田三成が派遣され、直江兼続(かねつぐ)は海津・長沼両城を三成の奉行に引き渡すため、一七ヵ条の指示を出した。上杉家臣・地侍(じざむらい)・奉公人の百姓にたいする不法を禁止する一二ヵ条の掟書(おきてがき)も出された。百姓は大名や領主のものという考え方が否定され、公儀(こうぎ)のものであるという豊臣政権の法によって処置しようとするものであった。上杉家臣は倅者(かせもの)・小者(こもの)・中間(ちゅうげん)にいたるまですべて連れて国を移るが、百姓はつぎの大名に引き渡す。こうして北信濃では、百姓と武士との身分による兵農分離(へいのうぶんり)が実施された。景勝は会津一二〇万石の大大名(だいだいみょう)になって信濃衆も知行が増えたが、慶長五年になると関ヶ原の戦いで反徳川方となったため、米沢三〇万石に転封(てんぽう)された。このため、わずか三年で知行高は激減し武士身分になったとはいえ窮乏生活を余儀なくされた。


写真88 長沼城跡(長沼穂保) 自然堤防上に五輪塔・石塔・石祠などが残っている

 会津国替のとき須田満親(みつちか)は会津に行かず、松代の地で死去した。松代町浄福寺が菩提寺で、尼巌山麓(あまかざりさんろく)の「寺屋敷」付近の斎藤家に位牌(いはい)があると伝承する。綱島氏など土豪や地侍の一部は、百姓身分として善光寺平に残ったものも多かった。近世社会になっても名主や「殿さま」として戦国社会の様相を残したまま生活したものも少なくなかった。

 この戦国争乱は善光寺平の中世民衆にとってどのような歴史的意味をもっていたのか。第一は戦争・飢饉(ききん)・疫病の三大苦のなかで、農民の逃亡や困窮によって村を離れることが多く村の荒廃が深刻であった。諏訪上社の「守矢満実(もりやみつざね)日記」によると、文明(ぶんめい)十四年(一四八二)五月に信州では大雨が降りつづき大洪水で、諏訪大町の十日市場や安国寺が押し流され、栗林郷の田畑も流失し、人馬の出入りが一〇日ほど断絶した。この年五月は京都・大和でも大洪水が発生し全国的な異常気象であった。永正(えいしょう)十五年(一五一八)甲斐(かい)の「妙法寺記(みょうほうじき)」は「この年惣(すべ)て一国二国ならず日本国飢饉して諸国餓死に及ぶなり」とある。天文(てんぶん)九年(一五四〇)八月十一日「諏訪神御使頭之日記」には、「大風吹出」「近年になき大風」「宮々の古木大木吹き折れ候」とある。京都「北野社目代(もくだい)日記」同年八月十三日条にも、「風雨事外(ことのほか)ふき候て林の木二、三十本ふきをり候」と異常気象を記録している。翌年には甲斐で「この年春餓死至り候」と災害・飢饉がつづいている。

 こうした災害や荒廃のなかで、村や郷そのものが消滅してしまう事例が数多くみられた。善光寺平では千曲川流域や浅川流域の村が消え去った。文明年間、水内郡に桐原・古野郷とならんで中島・長島郷とよばれる郷が存在し、代官に中島長吉・中島信重らの地侍がいた。しかし、慶長三年には「高井郡井上村ノ内中島村」となり、川東の村になっている。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の千曲川大洪水では村の大半が流失してしまった。中島(須坂市)ではいまも千曲川の西から移住してきたという伝承が残っている。

 徳長(とくなが)は明徳(めいとく)三年(一三九二)に高梨氏所領目録に「東条荘内得長」とみえる郷であった。小市郷の代官徳長道頓(どうとん)の出身地であり、天正年間にも綱島・千田・駒沢・徳長・堀などとみえる。しかし、浅川と千曲川が合流する低湿地の氾濫(はんらん)で徳長郷は天正年間以降には消滅してしまい、近世にはみられず、わずかに、駒沢(古里)と北堀(朝陽)付近に地字として「徳永」が残るのみである。綿内付近にあった「小柳(おやなぎ)」「島村」、長池付近にあった「富長(とみなが)」、高井郡井上付近の「亘理(わたり)」なども室町戦国時代にあった郷村だが、戦国時代末期には消滅してしまった。中世では村が消滅してしまうというきびしい現実があった。

 第二の特質として、百姓らの離散・逃亡などの抵抗がはげしく、年貢額や納入時期をめぐって大名と百姓との駆け引きがくりかえされ、百姓の合意なしには年貢も徴収できなくなっていた。永禄十二年(一五六九)十一月には武田信玄は地下人(じげにん)が村に還住(げんじゅう)するなら三ヵ年の普請役を免除するという文書を葛山衆(かつらやましゅう)に出している。百姓衆が村にもどらなければ大名権力も困ることを知って、善光寺平の百姓衆は欠落(かけおち)・逃散(ちょうさん)という抵抗手段を行使した。大名と領主は共同して人返し令をくりかえし発布した。信玄は元亀(げんき)三年(一五七二)には、福島(ふくじま)(須坂市)の祖母・甚六、古野(吉田)の市右衛門、小高梨の新右衛門、村山の弥右衛門・三之助、大室(松代)の文右衛門、西条(にしじょう)(松代)の源三郎、小柴見(こしばみ)(安茂里)の市右衛門、長沼の七右衛門、新戸黒彦(あらとくろひこ)(千曲市)の小右衛門、屋代山田(千曲市)の清次郎、東条(松代)の主計(かずえ)など個人名をあげて、分国を追放するので近辺を徘徊(はいかい)していたら見つけしだい召しとり信玄に注進するように国人・地侍衆に命じている。佐久郡海口(うみのくち)郷では永禄九年(一五六六)、二年間の凶作困窮のため村の過半が逃散してしまった。伊那郡片蔵(かたくら)郷(高遠町)でも天正(てんしょう)六年(一五七八)の検地で増分(ましぶん)が打ちだされて年貢が増えると「逐電(ちくでん)」逃亡したため、武田勝頼は増分を免除して百姓の還住を命じている。永禄六年十一月三日、信玄は原左京亮(さきょうのすけ)と伊藤右京亮に、「被官(ひかん)・地下人(じげにん)・僧俗男女ともに相集め耕作せしむべし」と命じている。戦国大名の領国支配は農民の抵抗によって安定したものではなかったことがよくわかる。

 第三に、こうした大名・領主・百姓らの駆け引きのなかで、しだいに社会の富が在地に残され、有徳人(うとくにん)や郷の代官とよばれる富裕者・中間層が在地のなかに成長した。たとえば、天文六年に関内蔵助(くらのすけ)は北高田・西尾張部・北長池の代官として上諏訪社造営銭を集めていた。天正七年には南長池の代官にもなり四つの村の造営銭を集めて回った。かれの一門には、元亀元年に南高田郷で五〇〇貫文を本領として安堵された関大蔵左衛門尉(じょう)がいた。同年に金箱(古里)の信叟寺(しんそうじ)に法衣を寄進した関源右衛門丞(じょう)も同名(どうみょう)である。天正九年に伊勢御師から長沼で御祓(おはら)い札をうけた関源右衛門と同一人物である。さらに天正八年九月には東和田・下越・中越・赤沼・神代(かじろ)(豊野町)・大島(おおじま)(小布施町)の土地を神社に寄進した関越前守繁国も同名である(写真89)。関氏は「同名衆数多(あまた)候」といわれる同族・同名という横の結合原理をもっていた。そのなかから、上杉景勝の家臣長沼島津氏の同心となった関右馬助(うまのすけ)・関下野守(しもつけのかみ)が出ている。かれらは、武士身分となって会津・米沢へと移住したが、その同名衆の多くは給人にもならずに有徳人・富裕者として在地で百姓身分のままにとどまって地方経済を支えた。慶長三年の国替と太閤(たいこう)検地よって、城下町に住む人と農村に住む百姓とに分けられた。この兵農分離(へいのうぶんり)こそ、中世農村と近世農村を分ける基準となった。


写真89 関繁国寄進状 関一族は会津に移住し武士になったものと信濃に残った百姓とに分かれた (矢澤龍一蔵)