元和(げんな)八年(一六二二)八月、上田城主真田信之(さなだのぶゆき)は江戸城によびだされ、二代将軍徳川秀忠(ひでただ)から「松城(まつしろ)城は名城、ことに北国の要害なので、行って治(おさ)めるように」と松城への移封(いほう)を命じられた。上田六万石から一〇万石への加増であった(ほかに上野(こうずけ)国(群馬県)沼田領三万石があるが、のち別領になる)。
信濃国の中世以来の大名は、これより前にすべて領地を移されていて、真田氏の移封はその最後に位置づくものであった。天正(てんしょう)十八年(一五九〇)に関東の北条氏をほろぼした豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、徳川家康(とくがわいえやす)を関東へ移し、家康配下になっていた中・南信と佐久の諸領主もみな関東へ去った。
北信四郡(更級(さらしな)・埴科(はにしな)・水内(みのち)・高井(たかい))の近世は慶長(けいちょう)三年(一五九八)に開幕した。同年正月、北信を領していた越後の上杉景勝(かげかつ)は秀吉から会津(あいづ)(福島県)への移封を命じられた。これには有名な兵農分離令(へいのうぶんりれい)がともなった。「家中(かちゅう)・侍(さむらい)はもとより中間(ちゅうげん)・小者(こもの)まで一人も残さずつれていけ。しかし、田畑をもち年貢(ねんぐ)を納め検地帳(けんちちょう)に載る百姓はいっさいつれていってはならない」。この命令はきびしく実行され、上杉氏に仕えるものは武将らはもちろん、これまで村々に住み、所持地を百姓に耕作させ、いくさのときには百姓をつれて出陣していたような地侍(じざむらい)たちも、いっせいに会津へ去った。
かわって豊臣政権は四郡の中央に太閤蔵入地(たいこうくらいりち)(秀吉の直轄地(ちょっかつち))をおき、飯山・海津(かいづ)両城に豊臣大名を配するとともに、四郡で太閤検地(けんち)を実施した。この検地ではじめて四郡村々の石高(こくだか)が定まった。石高は米の標準生産高で、米をつくらない畑や屋敷(やしき)地もみな米に見積もって生産高をつかむ。合計すると村高(むらだか)がきまる。以後この村高は、支配層へ領地をあたえるにも、村々へ年貢をかけるにも、そのもとになる。
慶長三年八月に秀吉は死に、蔵入地は遺子秀頼(ひでより)にうけつがれたが、こうした豊臣体制は慶長五年二月に一変した。覇権(はけん)をめざす家康が北信の豊臣蔵入地と豊臣大名領を廃し、息のかかった森忠政(ただまさ)を四郡に送りこんだからである。これは、この年九月の関ヶ原合戦にいたる東西決戦に大きく影響した。しかし、その森も、豊臣政権の兵農分離と石高制はうけつぎ、さらに徹底した再総検地を四郡でおこなった。既得権(きとくけん)をうばわれる残存地侍らは武装一揆(いっき)をおこしたが、完敗して数百人が処刑された。地侍勢力は一掃(いっそう)され、北信の村々は純粋に百姓だけの村へとかわった。森のあとの家康の六男松平忠輝(ただてる)も、つづく松平忠昌(ただまさ)・酒井忠勝(ただかつ)も同じ路線をうけついだ。
このように中世から近世への地ならしを終えていた北信に、真田信之は入封(にゅうほう)した。上田時代の真田氏は銭(ぜに)の年貢高(貫文(かんもん)制)で村々を把握(はあく)していたが、松城(まつしろ)領ではできあがっていた石高制と森検地の村高をそのまま用いた。領政は、肝煎(きもいり)(のち名主(なぬし))を中心につくられていた町村組織に乗ってすすめられた。また、上級家臣に上田時代の地方知行(じかたちぎょう)制を踏襲(とうしゅう)して知行地をあたえたが、領知高が増したぶんの大半は藩主蔵入地に組みいれ、藩主権力は強まった。領政にたずさわる組織も、城下八町の町奉行(まちぶぎょう)、村々を支配する郡(こおり)奉行をはじめとしてととのえられた。
なお、海津(かいづ)城は侍城(まつしろ)城ついで松城城とかわり、松代城と記されるのは正徳(しょうとく)元年(一七一一)からであるが、以下では松代と記すことにしたい。