森検地帳を用いてきた松代藩は寛文(かんぶん)六年(一六六六)、領内全村に命じ、村の総百姓が寄り合い吟味(ぎんみ)のうえ連判(れんぱん)した水帳(みずちょう)(検地帳)を指出(さしだ)させた。森検地から六十数年たつうちに、田畑一枚一枚の石高(こくだか)がわからなくなり、年貢上納に紛糾(ふんきゅう)が生じていたためである。この指出(さしだし)水帳は森検地の村高(本田高(ほんでんだか))は動かさず、本田とその後開発された新田(しんでん)の田畑一枚ごとに「持ち主はだれか。石高はどれだけか。その年貢は御蔵(おくら)(藩主)納めか、給所(きゅうしょ)(地方(じかた)知行地)ならだれ納めか」などをはっきりさせ、百姓個々の石高帳と、それを合計した村の総石高帳を差しださせる。これを藩役人が点検のうえ、「今後はこの帳面により年貢・諸役(しょやく)などを勤めるものとする」と奥書(おくがき)して下げ渡した。この指出水帳は、以後長く土地・課税台帳としてうけつがれる。
寛文指出検地の結果、石高がはっきりして年貢の割りふりをめぐる村内の混乱は減ったが、検地から八年めの延宝(えんぽう)二年(一六七四)、松代全領の百姓が一揆(いっき)をおこした(二斗八騒動(にとはちそうどう))。下高田(しもたかだ)村(古牧)の助弥(すけや)ら三人が死罪となり、のちに義民(ぎみん)としてまつられた。この一揆によって藩はまず給所(きゅうしょ)あて、ついで全領あてに定書(さだめがき)を出した。一揆の要求の多くをうけいれ、年貢・小役(こやく)(諸役)の改正を定めたもので、百姓たちもこれで納得して静まった。給所あてに先に出されたのは、一揆の要求がおもに地頭(じとう)(知行地をもつ家臣)の恣意的(しいてき)な収奪にむけられたことをしめしている。
定書の第一条は、二斗八騒動の名の由来となるものである。松代藩の年貢は籾俵(もみだわら)(五斗(と)三升(じょう)俵)で納めるのが原則だが、地頭のなかにはこれを米納(べいのう)させ、籾一俵あたり玄米(げんまい)三斗納めや、舂き米(つきまい)(白米)納めを強要するものがいた。定書は、米納は籾一俵あたり玄米二斗八升納めと明記し、また舂き米納めは禁止、米のとれない山中(さんちゅう)(西部山間地村々)ではけっして米納させない、などと明確に定めた。第二条以下はすべて、諸小役(こやく)に関する定めである。多くは、これまで無際限になりがちだった小役を村高一〇〇石につきどれだけと数量を限定した。たとえば役大豆(やくだいず)は一〇〇石につき六俵といった限定である。さらに、数量を限定したうえでその上納ぶんを年貢籾から控除する小役もあった。胡麻(ごま)は一〇〇石につき五升納め、その二倍ぶんを年貢籾から差し引く、というような規定である。このようにして、これまであいまいだった小役でも、石高制にもとづく原則が確立した。