松代藩の財政は、貨幣経済がひろがって支出がかさむ享保(きょうほう)年間(一七一六~三六)ごろになると、深刻な財政難におちいった。このため、享保十四年(一七二九)から家臣知行の半分を藩が借り上げる半知(はんち)が施行された。最初は返す約束だったがまもなく借り上げきりになり、年々の半知が制度化した。他方、村と百姓の負担は増大した。年貢を納められない未進金(みしんきん)が積みかさなり、田畑・家屋敷(いえやしき)を手放して没落する潰(つぶ)れ百姓が続出した。そのうえ寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌(いぬ)の大満水で村々は大打撃をうけた。しかし、藩は納められそうな村に年貢を先納(せんのう)させた。たとえば宝暦(ほうれき)四年(一七五四)に保科(ほしな)村(若穂)から翌五年以降九ヵ年ぶんの先納金一一七〇両をうけとっている。しかし、無理な先納に依存するようでは藩財政の破綻(はたん)は目にみえている。抜本的な財政改革策が求められていた。
折から江戸住まいの浪人(ろうにん)田村半右衛門(はんえもん)は、手をまわして江戸藩邸の家臣に取りいり、財政改革の手腕を売りこんで五代藩主信安(のぶやす)に登用された。寛延(かんえん)四年(宝暦元年、一七五一)八月、松代に乗りこんだ田村は全領村々代表を集め、ことばを荒げて数々の「新法」の増徴策を申し渡した。帰村した山中(さんちゅう)三万石の百姓たちは、決死の出訴を申しあわせた。村の鎮守に詣(もう)で、先祖の墓所へ参り、妻子や親類と水盃(みずさかずき)をかわし、八月七日に松代表へ押しだして、田村の身柄(みがら)引き渡しと新法撤回(てっかい)を要求した。里郷(さとごう)村々にも同調する動きがあった。国元の家老らは新法撤回を全面的にうけいれた。田村は命からがら江戸へ逃げ帰った。このとき「百姓ども不埒(ふらち)、打ち首に」と口ばしった藩主を切腹覚悟で諫(いさ)めて田村を罷免(ひめん)させたのは、恩田木工民親(おんだもくたみちか)であったと『田村騒動記』は伝える。
宝暦二年、信安が病死してまだ一三歳の幸弘(ゆきひろ)が六代藩主に就任する。幸弘は宝暦七年、親類一門の同意を得たうえで恩田木工を江戸へよび、財政再建担当の家老に任じた。木工の事績(じせき)を記す『日暮硯(ひぐらしすずり)』によれば、帰国した木工は家族・親類を集めて義絶(ぎぜつ)を申し渡す。おどろいて問い詰める一同に、木工は「一国の政道を果たすには決して虚言(きょげん)を申さず、また財政再建をはかるにはみずから質素倹約に徹しなければならぬ。皆を巻き添えにはできない」といい、一同は涙ながらに決して仰(おお)せにそむかないと誓いあう。
藩主幸弘のはじめての帰国を待っていた木工は、全領町村の肝煎(きもいり)・長(おとな)百姓・組頭(くみがしら)と小百姓・平町人(ひらちょうにん)代表、それに御用金・先納(せんのう)金拠出人と年貢未進人残らずを白州(しらす)に集めるとともに、家老以下諸役人すべてを大広間に列座させた。この官民大集会の席上、木工は「これから財政再建の存念を話すが、一言半句(いちごんはんく)たりとも嘘(うそ)は申さない。皆々も腹を割ってそれがしと万事相談づくにしてくれよ。これを第一に頼む。得心してくれねば切腹するほかない」と切りだした。満座のものが得心を表明すると、木工はひとつひとつの改革案を提示する(『日暮硯』)。
①以後音物(いんもつ)(賄賂(わいろ))は厳禁。②これまで足軽(あしがる)多数が年貢催促に回村し迷惑をかけたが、以後は一人も出さない。③在任中、緊急の川除普請(かわよけぶしん)などを除き、諸役は免除。④今後先納・先々納はいっさい命じない。今までのものは返せないので殿様に進上してくれ。⑤御用金も今後は命じない。従来のぶんは返せないが、子孫が貧窮した場合にはきっと返す。⑥年貢未進は不埒だがよくよくの窮状ゆえのこと、これまでの未進は下しおく、などであった(ただし『日暮硯』と異なり、未進金の一部は長年賦(ながねんぷ)で上納させる)。ほかに大きな仕法として、金納年貢・小役の月割上納制(つきわりじょうのうせい)がある。納めるべき金額を三月(のち四月)から十一月までに割って毎月集め、肝煎(きもいり)が所定の日に松代へ持参、上納する。八、九月まではまだ米の本格的な収穫の前だが、宝暦ごろには木綿(もめん)・菜種(なたね)・麻(あさ)をはじめ商品作物が普及し、加工業や輸送業などの現金稼ぎの道も開けてきていたことを見越しての政策であった。
木工はまた、月割上納をしやすくするため、六〇種類あった小役の三九は廃止し、残りもできるだけ金納にあらためた。年貢も籾(もみ)上納から可能なかぎり金納に切りかえた。なお、籾納めのほうでも二重俵で納めさせていた御飯米(ごはんまい)を江戸出し分だけとし、松代出しは一重俵に簡略化するなど、さまざまな百姓負担の軽減をはかった。
田村の新法に猛反発した領民が、同じく新法にほかならない木工の改革をうけいれたのは、「決して虚言をいわない」人格への信頼に加え、財政窮迫の実情をつぶさに開示し、「無理な頼みだが聞いてくれぬか」「村へ帰りよくよく相談して返事をしてくれよ」といった、対話と合意を尊重する姿勢によるものであったろう。財政がはかばかしく好転することはなかったが、木工の改革は家中へも領民へも長く大きな影響をおよぼした。