松代城と武家町

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武田信玄(しんげん)が海津(かいづ)城を築いたのは永禄(えいろく)元年(一五五八)~三年ごろである。城はその後上杉氏から五氏の城主にうけつがれ、改修の手が加えられた。元和(げんな)八年(一六二二)に真田氏が入って以後も、享保(きょうほう)二年(一七一七)の城内を全焼した松代町大火、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌(いぬ)の大満水、弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺地震と犀川滞水(さいがわたいすい)決壊の洪水などのたびに修築される。また新施設もつくられてきた。

 昭和五十六年(一九八一)に国の史跡指定をうけ、同六十年からの史跡環境整備事業で発掘調査もおこなわれた。その結果、数々の新知見がもたらされ、近世後期の姿での太鼓(たいこ)門・北不明(きたあかず)門などの復元が実現するとともに、海津城の原型とそこからの改変のようすがかなり明らかになってきた。

 城は梯郭式(ていかくしき)とよばれる平面形を基本としており、千曲川を背に最奥部を本丸、その周囲を二の丸とし、それぞれを内堀、外堀で囲む。この範囲までが海津城築城当初からのものだったと推定されている。近世に入って二の丸大手(おおて)口の出郭(でぐるわ)や、三の丸、花の丸などが増設された。三の丸の堀の外がわにも幕末に新御殿が造営される。

 このように拡大はしたが、戦国期にくらべ近世の築城技術は大変革をとげたにもかかわらず、近世城郭(じょうかく)に姿をかえた部分はさほど多くない。近世城郭といえば代表的なのは高くそびえる天守閣(てんしゅかく)と石垣であろうが、松代城では天守閣はつくられなかった。石垣のほうは、二の丸その他では海津城の伝統を残す土塁(どるい)のままで、本丸のみが野面(のづら)積みの高石垣で囲まれている。本丸内部で最初に石垣が築かれたのは北西部の戌亥櫓台(いぬいやぐらだい)で、安土桃山(あづちももやま)時代と考えられている。本丸周囲の石垣もそれにつづいての構築だが、時期ははっきりしない。現在みる石垣は、そのあと数度の大規模な改修でつくりかえられた姿である。なお、城郭の北西部を洗うように流れていた千曲川は、城内まで水没した戌(いぬ)の満水のあと、西へ引き離す瀬替(せが)え工事がおこなわれて今の流路にかわった。

 真田氏が入ったとき、城をとりまく城下町もすでに形づくられていた。西の神田(かんだ)川、東の関屋(せきや)川にはさまれる一帯である。そのうち武家町は、城に接して重臣・上士の殿町(とのまち)があり、その外がわをとりまいて北国街道沿いに町人町(ちょうにんまち)がある。中・下級家臣の住居は、おもに町人町の南の幾筋もの南北道路沿いに配置された。真田氏が新たに設けたものには上田領から移した寺院がある。これらの寺は、のちに他の領内有力寺社とともに幕府に申請し朱印(しゅいん)領寺院とした。長国寺(真田家菩提寺(ぼだいじ))、大英寺(信之(のぶゆき)が亡妻の菩提に開基)、大林寺(真田昌幸(まさゆき)開基)などである。なお、開善寺(真田家祈願寺)は、真田家氏神(うじがみ)の白鳥(しろとり)神社とともに城下南郊の西条(にしじょう)村においた。